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2022年9月9日金曜日

俳句の鑑賞 18 昭和の虚子


ビジネスマンとしての高濱虚子は、ホトトギスを一大俳句企業に押し上げるため、大正12年に鎌倉から都心の丸の内に事務所を移転します。その成果は、多くの大学出身の都市型インテリや財界人が集まることになり、ホトトギスは隆盛を極めるのでした。

しかし、「花鳥諷詠」に固執する虚子に対して、ホトトギス内部から写生よりも文芸としての叙情的なリアリティが重視する「新興俳句」が生まれてきます。その先頭を走ったのが、都会型ホトトギスで育った水原秋櫻子や山口誓子でした。彼らはホトトギスと並行して「馬酔木(あしび)」句会を創設していましたが、昭和6年秋櫻子はついに虚子の元を独立し、強力な対抗勢力になっていきます。

それでも、巨大な力を持ったホトトギスはびくともせず、日本はしだいに軍国化していく時代に入っていきました。新興俳句を実践する俳人の中で、特に京大関係者は反戦的な俳句を多く発表していたため当局の弾圧を受け、事実上、戦時下に新興俳句運動は消滅していきました。

戦後、実質的なホトトギスの運営を長男の年尾に任せ、虚子は悠々自適ともいえる生活を送ります。昭和34年4月1日に脳幹部出血を発症し、4月8日に85歳で死去。墓所は鎌倉の寿福院、戒名は虚子庵高吟椿寿居士です。

われの星燃えてをるなり星月夜 高濱虚子

昭和6年。ホトトギスの主力達が離反していった時代ですが、空を見上げて、自分の星はしっかり燃えていて、新月の夜でも地上を照らしているという、ものすごい自信が現れた力強い句になっています。必ずしも客観写生とは言い難いようですが、この時期の虚子のみなぎる力を象徴しているということ。

川を見るバナナの皮は手より落ち 高濱虚子

昭和9年。一読すると客観写生句であり、しかも人事の内容。食べ終わったバナナの皮を投げ捨てるではなく、滑り落ちてしまうところに、世相に対する不安が含有していそうというところが、陰に隠れた主観の妙味で、川と皮の対比も技巧的です。

雪山に虹立ちたらば渡り来よ 高濱虚子

昭和16年に23歳で虚子門下に加わった女流、森田愛子は、20歳で結核を発症し、鎌倉で療養生活をしていました。昭和17年に実家のある福井県に疎開した愛子に贈られた句。昭和18年、愛子を見舞った際、汽車の窓から虹が見えたことから始まった二人の最初の相聞句。昭和22年3月28日、死を目前にした愛子は、虚子に俳句を電報を打ちます。

虹消えてすでに無けれどある如し 森田愛子

4月1日、森田愛子死去。4月2日、虚子の弔電は次のような物でした。

虹の橋渡り遊ぶも意のままに 高濱虚子

すでに老境にあった虚子でしたが、愛子に対する艶のようなものを感じる話です。虚子は「虹」と題し小説として愛子との交流を書き上げていますが、これについては川端康成が絶賛していました。

去年今年貫く棒の如きもの 高濱虚子

昭和25年、新年を迎えるにあたって詠まれた、虚子の代表句の一つ。「去年今年」は「こぞことし」と読む新年の季語。句の中には直接目で見える物は一つもない、大変抽象的な内容で、虚子の達観した宇宙・自然・人間・時間などが凝縮していかのようです。

その日まで普通に過ごし急死した虚子には、辞世の句は無いようです。脳出血を発症する2日前、河東碧梧桐の理解者だった大谷句佛の17回忌にて詠まれたものが虚子最後の句とされています。

獨り句を推敲をして遅き日を 高濱虚子