もう、ずいぶんと昔のことになりますが、自分の研修医の頃、勤めていた大学病院で、「塩化カリウム事件」というのが起こりました。昏睡状態の死を待つだけの患者さんの家族にこわれた医師が、患者さんを安楽死させたものです。
このような事例は医療界でも初めてのことで、病院内で何度も全職員を集めてのミーティングが行われました。この中で、医療の本質や、医療に携わる人の倫理について討論が行われました。
今では、患者さんの権利として、この時の行為の一部が合法的な行われるような、一定の仕組みと言うのがあります。しかし、それらを超えた事件が発覚しました。
通常、1日ごとに半日近くかけて行うので、透析を導入された患者さんの日常は大きく制限されます。また、血液を体外に取り出す場所は、何度も使っているうちに傷んで使えなくなり、最終的には、腎移植を待つしかない。
東京の病院で、透析の患者さんに「透析をしない」という選択肢を提示し、実質的に患者さんの「自殺」の手助けをしたという問題がニュースになりました。
腎機能の悪化により死を目前にしたり、透析そのものができないような状況があれば、透析中止はありと思います。
まだ日常の生活ができているうちから中止して、患者さんの様態がじわじわと悪化していくのを待つというのは、患者さんが自ら強く望んだとしても了承しかねるというのが普通です。
もし、そういう患者さんがいれば、患者さん自ら通院をしなければいいだけの話。患者さんが、自らの意思で消極的な自殺をしたいのなら、積極的な介入はできません。
少なくとも、病気やケガで困っている人を手助けして、少しでも日常に戻れるようにすることが医療の目的であることは、法律論を持ち出すまでもなく当然のことです。人が死ぬことを手助けすることが医者の仕事ではない。
今は治療の選択肢をすべて提示することが求められていますので、その中のひとつとして「治療をしない」という選択肢は存在しますが、命にかかわる場合にそれを推薦したり、患者さんが選択しても回避するように説得するべきです。
末期癌患者さんなどで、苦しまずに死を迎えられるように手助けする医療は存在しますが、これは手の施しようがないことが明らかで、ごく近い将来に死が訪れることが確定している場合。
それを拡大解釈してしまったら、何でもありになってしまいます。何も治療行為をしなければ、遠い将来死ぬかもしれない病気は他にもたくさんありますから。