2021年8月18日水曜日

僕の村は戦場だった (1962)

戦争映画の名作を探していると、必ず出くわすタイトルの一つがこれ。この前、戦争映画を見続けていた時に、この作品は史実に基づいたものでない(フィクション)ことと、ソビエト製でちょっと敷居が高いことから飛ばしていました。

ところが、これがアンドレイ・タルコフスキーの監督作品となると、黙って通り過ぎるわけにはいかなくなりました。タルコフスキーにとっては、30歳にして初の長編作で、白黒ですがベネチア国際映画祭金獅子賞、サンフランシスコ国際映画祭監督賞を受賞しています。

1959年発表のベストセラー小説、ウラジーミル・ボゴモーロフの短篇「イワン」の映画化で、原題を直訳すれば「イワンの少年時代」です。第二次世界大戦の最中、独ソ戦のさなかに両親と妹を失ったイワンが、少年ながらかたくなに偵察任務に身を投じる内容です。

冒頭、白黒ながら美しい自然の中で、なかなかの美少年であるイワン(ニコライ・ブルリャーエフ)が幸せに過ごしているところから始まります。しかし、それは彼の思い出であり、水車小屋で目を覚ましたイワンは沼地を渡り、鉄条網をくぐりソビエト軍前線基地にたどり着くのでした。

ガリツェフ上級中尉はずぶ濡れの少年に質問をしますが、イワンは「ボンダレフが来たとグリャズノフ中佐に連絡して」としか言わない。半信半疑で電話をしてみると、中佐は「ホーリン大尉を迎えを出すから大事にしろ」と答えます。

中佐のもとに戻ったイワンは、自分が偵察してきたドイツ軍の情報を渡しますが、中佐は危険な仕事を進んでするイワンを、何とか学校に戻し教育を受けさせてあげたいと持っています。しかし、ドイツ軍に対する憎しみからイワンは頑なに学校行きを拒否するのでした。

ドイツ軍の攻撃が勢いを増してきて、ホーリンとガリツェフはイワンを川の対岸の敵陣に偵察に送り込むことになります。川を渡ったところで、イワンは夜の森の中に消えていきました。そして、それがイワンの姿をみた最後でした。そして、戦争が終わって、ベルリンでガリツェフは処刑者名簿の中に、前を強い眼光で睨みつけるイワンの写真を発見するのでした。

最前線を舞台にしていながら、積極的な戦闘シーンは無い映画で、度々発射される曳光弾、基地が爆撃されるところ、川を渡る船が機関銃で狙われるところ、川辺にドイツの墜落した戦闘機の残骸があることくらいが、戦争中であることを示しています。

イワンは夢の中ではとてもこどもらしく楽し気にしているのに対して、現実の厳しい世界では薄汚れて痩せこけて、そして何もしないのは役立たずだと言い放つ。その対比によって、戦争が及ぼす悲劇を描き出しています。

カメラは動かずに俳優を大きく移動させることで場面転換をはかったり、タルコフスキーの特徴である鏡を使ったり、水面のイメージによって、イワンの心の表と裏をあらわしています。台詞を排した動きの少ないシーンや長回しの映像も、逆に緊張感を強めていく効果があります。

また、ホーリン大尉は美人の看護中尉のサーシャに手を出そうとするシーンが興味深い。白樺林という美しい背景の中で比較的長い時間を使うこのシーンは、血生臭い戦争とも、主人公であるイワンの境遇ともほぼ無関係と言ってもいい部分で、検閲の厳しかったソ連でおそらく最も問題視されたことは容易に想像できます。

それでもこの長いシーンを映画の半ばにはずさなかったのは、戦争によって焼け焦げた木、そして希望のないイワンの未来を象徴するかのような川辺の暗闇の中の木々と白樺の美しさとのコントラストを鮮明にすることにあることは間違いない。

表向きにはドイツの悪行によりソビエトの少年に降りかかった悲劇を通して反戦を訴えているのですが、タルコフスキーにとってはソビエトもロシアも関係なくより美しい物に対する憧憬が主題にあったと思います。そういう意味で、それのでのメディアのパッケージはイワンの顔が中心でしたか、最新のブルーレイ、DVDのパッケージが白樺林にデザインされたのは象徴的かもしれません。