2021年8月10日火曜日

1984 (1984)

人々が考える最も素晴らしい世界は、16世紀にトマス・モアによってユートピア(理想郷)と呼ばれ、対比することで現実社会を批判するものでした。19世紀半ばに、産業革命後の機械的な社会を批判するために、より非人間的になる未来像をユートピアの反意語としてディストピア(反理想郷)と呼ぶようになります。

H.G.ウェルズはディストピア文学の先陣ですが、もう一人、全体主義を痛烈に皮肉った「動物農場」で知られるジョージ・オーウェルも、ディストピア作家として記憶されます。オーウェルの、そしてディストピア文学の代表作とされるのが、1949年に発表された「1984年」で、1956年に最初の映画化がなされましたが、比較的ハッピー・エンドに改変したことで批判が多い。

イギリス人のマイケル・ラドフォードが、彼の初監督作品として選んだ題材が、この「1984年」のリメイクであり、まさに1984年に合わせて公開されました。この小説の映像化作品の決定版として高い評価を得ていると同時に、近未来を描くディストピア映画の代表作とされました。

ただし、複雑なプロットの上に成り立つ長編なので、2時間前後で映画化するのはかなり難しい。基本的に原作を読んでいることが前提にあるようなところがあり、映画は原作を視覚的に理解するためのものという感じ。ですから、あらかじめ、ある程度の予備知識を整理しておく必要がありそうです。

舞台となるのは、オーウェルが原作を執筆した1947~1949年を現在として、数年後に第三次世界大戦と呼ばれる核戦争が勃発し、世界はオセアニア(南北アメリカ大陸、アフリカ大陸の南半分、オーストラリア)、ユーラシア(ヨーロッパと旧ソビエト連邦)、イースタシア(イラク、イラン、チベット、モンゴル、中国、日本など)の一党独裁体制下の三大国に再編成された25年後の近未来です。アフリカ大陸北半分、中東、インド、東南アジアは紛争地域として人が居住しない場所とされています。

どの国でも、人々はテレスクリーンと呼ばれるモニターで監視されると同時に、様々な情報を提供され思想統制されています。大国間では戦争が継続的に行われているものの、支配地域を拡大するためではなく、労働階級を戦争で消費することで支配階級の権力維持が真の目的です。

オセアニアを率いるのは正体が不明のビッグ・ブラザーで、「戦争は平和なり」、「自由は隷従なり」、「無知は力なり」をスローガンとするイングソックと呼ばれる表向きは社会主義の一種をイデオロギーとしています。かつてはビッグ・ブラザーと共同指導者であったエマニュエル・ゴールドスタインは反政府運動に転じ、今では「人民の敵」と呼ばれ、人々は毎日彼が映し出されるテレスクリーンに対して二分間憎悪を行っています。

政府は、軍を統括する平和省、配給を行う豊富省、思想統制をする真理省、警察権を有する愛情省の4部門から成り立ち、ごく少数の黒いオーバーオールを着用する党内局員が特権階級として支配し、青いオーバーオールを着用する党外局員が官僚として実務に当たります。人口の85%に当たる、プロレと呼ばれる被支配階級の労働者は戦争・生産ために飼育されているに近い状況にあります。

オセアニアのロンドンに住むウィンストン・スミス(ジョン・ハート)は、日課の二分間憎悪をした後、真理省でいつもの仕事 - 過去の新聞などの記録の改竄作業をこなし、自宅に戻るとテレスクリーンの死角に隠し持つノートに日々の雑感を書き記していました。それは、考えることという禁止された行為でした。

ウィンストンは、知り合った若い娘、ジュリア(スザンナ・ハミルトン)と恋に落ちます。しかし、男女の関係はイングソックに対する忠誠心を鈍らせるものであり、人工授精によって子を作ることで、家族という概念も否定されています。ウィンストンは、ノートを買った古道具屋のチャリントン(シリル・キューザック)に頼み、店の二階の空き部屋を密会の場所に使わせてもらいます。

ある日、党内局員のオブライエン(リチャード・バートン)は、ウィンストンに声をかけ仕事ぶりを誉めます。オブライエンのオフィースを訪れたウィントンは、無駄な言葉をどんどん省いた党の意に沿った新しい使用できる言葉の辞典を渡されますが、実は中身は裏切り者されるゴールドスタインが書いた社会の真実を著した禁書で、ウィンストンはこの社会の欺瞞を知ることになるのです。

しかし、チャリントンは実は思考警察の一員で、彼の通報によりウィンストンとジュリアは逮捕されました。オブライエンは、ウィンストンの反応を確かめるために本を渡したのです。そして、オブライエン自らの手で、拷問による思想再教育が行われます。当初は抵抗していたウィンストンですが、苦痛と恐怖に支配され自我が崩壊しもビッグ・ブラザーへの愛情だけを持つ人格に変容してしまうのでした。

やはり、何も知らずにこの映画を見ると、なんだか陰鬱な気持ちになるだけ。しかし、ベースとなる社会構造を理解していると、権力の維持のために何が必要なのかがするどく描かれているのがわかります。そして、それは人間の個を潰すだけではなくいかにうまく利用するかということ。

さすがにジョン・ハートはこの手の鬱積した人物の演技については凄みがあって、見ていて恐ろしくなるくらいです。また名優リチャード・バートンによる、じわじわとウィンストンの信念を破壊していく様はさすがです。バートンにとっては、これが遺作となりました。

この原作のいろいろなカルチャーに対する影響力は絶大で、例えばテリー・ギリアム監督の「未来世紀ブラジル」はほとんど同じような世界観を持っています。他にも強力な統制下にある近未来を舞台にした映画、舞台、小説などのほとんどがインスパイアされていると言っても過言ではないかもとれません。

この映画の全体主義による国民のコントロールは、21世紀の現代でも現実になってきています。いたるところに設置された監視カメラ、個々が持ち歩くようなったスマートホンによる行動監視はまさにその例にあてはまる。さらに言えば、まさにそのものズバリという国がすぐ近くにありそうですし、もはやフィクションと言ってはいられません。

日本での初公開時は、俳優の下半身にぼかしが入れられなかった最初の映画という話題ばかりが先行してしまいましたし、現在ほどは現実になりそうな怖さを感じて鑑賞する人はいなかったかもしれません。