2021年8月25日水曜日

鏡 (1975)

すでに諸外国からも認められる存在になった、旧ソビエト連邦のアンドレイ・タルコフスキー監督の5作目であり、自伝的な内容は過去と現代を自由に行き来することで難解さを増したものになっています。

ネット社会の今日でも旧ソビエト連邦にいた時間が長いタルコフスキーの情報は多いとは言えません。また、いくつかの評論は、タルコフスキーの画一化した年譜を紹介するだけで、タルコフスキ個人的な紹介はほとんど見つけられません。

できるだけ先入観なしに鑑賞したいものですが、この映画ではタルコフスキーの生い立ちと強い関連性があるといわれている・・・にもかかわらず、その生い立ちについの議論がされず、それを確かめる情報もごく限られたものしかないのは不思議です。

父親であるウクライナで有名な詩人、アルセニー・タルコフスキーと、母親であるマリヤ・イワーノブナ・ヴィシュニャコーヴァの子として1932年4月4日にアンドレイは生まれました。両親とも文学大学の出身です。父親のアルセニーは、アンドレイの幼少期(3歳頃)に家を出てしまったため、印刷工場に勤める母親の手によって育てられ、作曲家に成りたいと思う少年でした。

生まれ育った場所は、ヴォルガ川流域のザブラジェと呼ばれる町、育ったのはモスクワ川流域のイグナーチェヴォ村となっていますが、ロシアは地名がしばしば変わりますしよくわからない。モスクワの東北約400km弱、ヴォルガ川岸のユリエヴェツの川をはさんだ対岸にあるザブラジエという小さな町が見つかりますが、Google Mapで確認してみると、高そうな建物は教会くらいで、民家はまばらで畑に囲まれた農村という趣です。

映画大学の仲間であったイルマ・タルコフスカヤと結婚し、1964年にラリサ・キジロワと再婚しています。ラリサは女優として、後期作品の助監督としてタルコフスキーの映画を支えました。

映画の冒頭は、吃音症の青年が女医の治療を受けているシーンから始まります。女医は精神的な緊張を別のことに移したあと、「僕は話せます、と言って」というと、青年はすらすらと「僕は話せます」と話したとたんに、黒地にシンプルな白い文字でタイトル(鏡)が示されます。

のどかの田園風景の中、煙草を吸いながら木の柵に腰掛けた女。主人公アレクセイのナレーションがかぶさってきて、やって来るのは父親くらい・・・だか、父はもう戻らない、と語ります。遠くから近づいてきた男は医者(タルコフスキーの映画ではお馴染みになったアナトーリー・ソロニーツィン)だと言い道を尋ね、「木は動かない。人が動き回るのは自然を信じていないからだ」と語り去っていきますが、突然強い風が吹き、周囲全体の草が大きく揺れ、タルコフスキー自身による父アレクセイの詩が朗読されます。

納屋から激しい炎があがり、鏡にふたりのこどもがそれを見ているところが映っています。女はたらいで髪の毛を洗い垂れた髪の毛が揺れる(まるで貞子!)、髪の毛を拭いていると部屋中に水が滴り落ちて空間が崩れていきます。髪の毛を拭いていた女はいつの間にか老女になっています。ここまで約20分間は、おそらくアレクセイの回想、または夢であり、女はアレクセイ(監督自身の投影)の母親。

母親マリヤからの電話でアレクセイは目を覚まします。アレクセイは、父が出ていった年、納屋が燃えた年を聞きます。母親の用件は、印刷所で一緒だったリーザが今朝亡くなったという知らせでした。ここから印刷所でのマリヤとリーザの仕事が回想され、リーザはマリヤにドフトエフスキーの「悪霊」の登場人物のように夫やこどもを支配しようとして不幸にしたと言われます。再びアレクセイの詩が朗読されます。

離婚した妻ナタリアとの会話。若い頃のマリヤとナタリアを一人二役で演じるのはマルガリータ・テレホワ。君は母に似ているというアレクセイに対して、ナタリアは、「だから別れたのね。息子のイグナートはあなたに似て怖いわ。お母さんと和解しなさい」と言い、スペイン内戦のニュース映画映像が挿入されます。

ここからはイグナートとアレクセイの少年時代が交錯する映像が続きます。二人を演じるのもイグナート・ダニルツェフ一人なのでややこしい。ニュース映像は、ナチスの終焉、原子爆弾投下、中国文化大革命などが続きます。

アレクセイはイグナートに「父さんと暮らそう」と言ってみますが、必要ないと断られてしまいます。戦争中はマリヤとアレクセイは、モスクワから以前の田舎の家に疎開しました。隣家を訪れたマリヤは、生活費のためイヤリングを買ってもらいますが、お礼にあげる鶏の首を自分ではねてと頼まれますが気分が悪くなります。

聞こえてくるのはバッハのヨハネ受難曲の冒頭コーラス。「主よ」を繰り返す中で、若かったころの両親がこれから作るこどもは男がいいか、女がいいかと話している。次にまだこどものアレクセイと妹を、年老いた母が手を引いて歩いていくのでした。

全編にわたって、カラーだったり白黒だったりが混在し、説明がないままにいろいろな人物が登場します。また、母と妻、小児期の自分と今の自分のこどもを同じ役者が演じ、どこが現代でどこが過去なのかとてもわかりにくい。明確なストーリーは無いので、あらすじを書くことすら困難です。

大人になったアレクセイは、この映画の中でセリフとしての声は何度も登場しますが、その姿は一度も現さない。一方のこどものアレクセイとアレクセイの息子イグナートは、セリフはほとんどなくひたすら母親を見つめるような視線を画面にのこしています。

しかし、一つ一つのシーンが絵画のように美しく、ニュース映像の挿入により、ロシアの詩的な美しさと揺れ動いた現代史が、この映画の中に封じ込められていることがわかります。こどもを守りたいだけの母親は、裏を返すと束縛につながる。それを嫌った息子は、母親と疎遠になりますが、自分もまた父親と同じように妻とこどもを置き去りにしてしまいました。

タルコフスキーの映画の特徴は、水・土・火・空気という4つの要素の映像化にあるということが言われています。この映画は、まさにそれらをタルコフスキーの記憶の断片を元に完璧なまでに視覚化してみせたものなんだろうと感じます。難しく考えだせばキリが無いし、またその答えも見つけられない作品です。ただし、そこにタルコフスキー映画の本質があるのだとすれば、見る者にとって踏み絵のような作品なのかもしれません。