旧ソビエト連邦の国営映画制作会社であったモス・フィルムは、第二次世界大戦前から連邦が崩壊する1991年まで、連邦政府の厳しい検閲のもとに映画作りが行われていたと言われています。スタジオから製作開始許可が下りるのに最初の苦労があり、始まってもいつでも作業経過はチェックされていました。映画が完成しても、最終的に国家映画委員会による検閲が待っています。
アンドレイ・タルコフスキー監督にとっても、自身の映画作りは検閲との闘いであったことは容易に想像できます。特に第3作目となった「アンドレイ・ルブリョフ」では、宗教的テーマであったため1967年完成にもかかわらず、検閲に通るようにシーンを削除した版が一般に公開されたのは1971年でした。
つまり、この間タルコフスキーは仕事をさせてもらえなかったということ。そして「アンドレイ・ルブリョフ」の公開が許可されると同時に、満を持して取りかかったのが「惑星ソラリス」でした。
ポーランドのSF作家、スタニスワフ・レムの1961年の小説「ソラリス(ソラリスの陽のもとに)」を原作としていますが、映画独自の解釈が目立つ内容にタルコフスキーと原作者とレムが罵り合いの喧嘩をしたというのは有名。それでも1972年のカンヌ国際映画祭審査員特別賞受賞により、タルコフスキーの名前を世界中に知らしめる記念碑的な作品となりました。
ただの小川であり、ただの水草がたなびているだけ。ただの川岸の雑草にもかかわらず、いきなり最初に見せられる光景の美しさはいったい何だろう。霧が漂うその場所にたたずむのは、鮮やかな青いジャケットを着た心理学者クリス・ケルヴィン(ドナタス・バニオニス)です。急な雷鳴と雨の中、クリスは濡れるにまかせていました。
かつて惑星ソラリスの調査隊の行方不明者を捜索に向かったバートン飛行士は、クリスに彼の委員会での報告ビデオを見せます。バートンはソラリスの海が沸き立ち、粘着質の霧が機体を包み、海には赤ん坊が裸で立っていたという話をしますが、委員会は信用せず幻覚だと決めつけてしまいます。
クリスは明朝、ソラリスに向けて出発することになっていたのです。彼は、ソラリス研究の終了の可否を決定する任務のため、非道徳的であってもソラリスの海に放射線を浴びせるぐらいの思い切った変化を起こさないと意味が無いと考えている。バートンは目撃した赤ん坊が、行方不明者の生まれたばかりのこどもに似ていたことを伝えます。
惑星ソラリスは、その表面のほとんどが海に覆われており、海そのものが特殊な頭脳であり、惑星全体が生命体と考えられていました。現在、ソラリスの軌道上にある宇宙ステーションにいるのは、生物学者サルトリウス、電子工学の専門家スナウト、生理学者ギバリャンの三人。クリスは到着するなり、散乱したステーション内に不信を抱き、スナウトからギバリャンは錯乱して自殺し、サルトリウスは実験室に閉じこもったきりだと聞かされます。
ギバリャンが自殺前に残したビデオ・メッセージには女性が一緒に映っており、サルトリウスの部屋にもこどものような誰かがいます。そして、クリスにも、いつのまにか部屋の中に、自殺した妻ハリー(ナタリア・ボンダルチュク)が現れました。混乱したクリスは、ハリーを探査用宇宙船に乗せて射出します。
ところが、いつのまにか再びハリーはそばにいて、クリスも存在を受け入れてしまうのでした。スタウトは、これらの現象は海に大量の放射線を放射してから始まり、ソラリスの海は我々の記憶の一部を物質化するのだと説明します。サルトリウスはニュートリノを安定化させて実像化していると考えていました。
記憶の断片から形成されたハリーは、自らの記憶は曖昧です。クリスの良心から生まれた自分が本物のハリーでは無いことを知っていて、彼女のことを教えてほしいといいます。クリスは、喧嘩して家を飛び出したこと、戻ったらハリーは毒を飲んで死んでいたことを話します。
ハリーは発作的に液体酸素を飲んで、凍って死んでしまう。しかし、スナウトがもうじき生き返ると言う通り、蘇生したハリーにクリスは、科学を捨ててここで一緒に暮らそうと言います。体調を崩したクリスは何人ものハリーや母親の幻覚みるのですが、気が付くとハリーはいない。
ハリーの希望で、スナウトがクリスの脳波を海に送ったためクリスの苦しみを理解した海がハリーを消したのでした。ソラリスの海には島ができていて、クリスは島にある実家に戻り、父親に許しを請うのでした。
確かにSF映画と言える、宇宙での不思議な現象についての話なんですが、ステーションのセットを除くと、衣装も含めて未来的な部分はほとんどありません。もっとも、バートンが自分の過去から現在までの時の経過を示す都会の中の高速道路を走り続ける長いシーンは、当時としては十分に未来的だったかもしれません。実は、これは日本の首都高速で撮影されたもので、タルコフスキーもご満悦だったらしい。
登場人物は少なくて、中心となるのは地上では両親、バートン、そして宇宙ステーションではクリス、ハリー、スナウト、サルトリウスの4人だけ。サルトリウスは「アンドレイ・ルブリョフ」で主役を張ったアナトリー・ソロニーツィンが演じています。
彼らの中での会話劇というには、あまりに少ない台詞によってこの不思議なストーリーが進行します。しかし、考えてみれば、通常の生活でいちいち物事を説明しながら会話することはないし、ましてや家族の間では暗黙の了解は山ほどあります。
タルコフスキーは、そこをいろいろなイメージによって見る者の想像力をかきたてるわけで、そのための道具として「水」、「鏡」、「土」、「空気(浮遊)」などをいたるところで使っているようです。また、夢やビデオを利用して過去と現在を行き来したり、長回しのシーンの多用による視覚的な連続性なども我々が考える時間を与えてくれる効果があるかもしれません。
しばしば、西側の「2001年宇宙の旅(1968)」に対する東側からの返答という評価を見受けますが、確かにSF映画を作る以上はそれ以上に物を作れと言う上からのプレッシャーはあったかもしれない。観客の無限の思考力を試される点では共通点を見出せますが、根底にあるテーマは違います。「2001年」が科学の先にある人間性を描いているとするなら、「ソラリス」は科学のもとでの人間性に焦点を当てているようです。
もともと科学のもとでは客観論者であったクリスは、「自分が自殺に追いやった」と信じているハリーの出現により、ハリーを出現させた自分の良心、つまり隠していた贖罪の心を認めます。ハリーもそういうクリスを、人間的と認めるようになり、自分の存在がクリスを苦しめていることを自覚し自ら消滅する道を選ぶのです。
そして、ただの美しい光景と思っていたクリスの実家は、ラストで美しいソラリスの海に浮かぶ島の一つにすぎなかったことに衝撃を受けるとともに、何故かは説明できませんがそのことを素直に受け入れてしまえる流れを作ったところは、タルコフスキーの映画作家としての力量の凄さなんだろうと思います。