繰り返しになりますが、俳句は上句5文字、中句7文字、下句5文字で構成され、その中に季語と呼ばれる季節を連想しやすい言葉と、言葉の間合いを取ったり詠嘆・強調する効果を持つ切れ字を含む短文詩です。
初心者は、まず基本としてこのような決まり事を守りながら作句することが推奨されていますが、慣れてくると応用技術として、「字余り」や「句またがり」といった方法を用いて、意図的に5-7-5のリズムを崩した「破調」の句でより深みを出したりすることがあります。
破調はあくまでも5-7-5の延長ですが、この基本の枠組みを取っ払い、季語すら必須にものとはせず、自由に心情を「語る」ものがあります。そのような俳句は自由律の俳句と呼ばれ、放浪の俳人、種田山頭火が特に知られています。
書家の相田みつおが書く文章は、しばしば俳句のような雰囲気を併せ持っていて、場合によっては自由律俳句と言えなくもありませんが、一般には散文詩と呼ばれます。
つまづいたって いいじゃないか にんげんだもの 相田みつお
有名な詩ですが、あえて俳句として見立てると、季語無しで上七中六下七、「いいじゃないか」の「か」でキレがある3文字オーバーということになります。まさに自由律なんですが、読んだ時の受ける印象とリズムはあきらかに俳句のそれとはどこか違う。
では山頭火の代表作はどうでしょうか。まずは定型句から。
霧島は霧にかくれて赤とんぼ 種田山頭火
続いて、自由律。
夕立やお地蔵さんもわたしもずぶぬれ 種田山頭火
酔うてこほろぎと寝ていたよ 種田山頭火
どうしようもないわたしが歩いている 種田山頭火
定型句として作られたものは、それはそれで良句なんでしょうけど、それと比べて自由律の響きの面白さは格別です。制約は無いとは言っても、やはりどこかに俳句らしい「想像をかきたてる何か」が詰まっていて、散文とも川柳とも違う雰囲気があります。
これはどんな分野の芸術にも言えることだと思いますが、何らかの感動を他人に与える時、それなりの共通に認識できる方法論みたいなものがしだいに出来上がっていくものです。それによって、芸術を作る側としては提示するのに便利ですし、鑑賞する側も理解しやすくなります。
ところが、そのような仕組み(あるいは制約)が完成すると、それを窮屈に感じてそこからから解放され、もっと自由に表現したいと思う作り手が登場します。社会の中にも、保守と革新が存在するのと同じです。
ただし、基本となる原則を理解した上で、それを崩すから新たに感動する物を生み出せるわけで、最初からやってたらただの「がらくた」に過ぎません。山頭火もしっかり定型句の技術を学んだからこそ、自由律で評価されているのだと思います。