2022年8月25日木曜日

俳句の勉強 28 子規の俳句分類


物事を分類するというのは、ほぼどんな場合にもあるわけで、ちょっと小難しく考えると、その基本はAとBの違いを知ることで、比較論として両者を理解することにつながるということ。比較するときに主観が立つと、好き嫌いに発展して、時には差別と言う状況を作るかもしれません。

正岡子規が近代俳句の「創始者」と認められていることに異論をはさむ者はいないと思いますが、作られた句の素晴らしさだけでの評価ではなく、批評家としての優れた慧眼を持っていたこと重要な要素です。

では、それはどこから育まれたものか。生来の資質も当然あるかもしれませんし、成長過程での人との結びつきも関係するでしょう。しかし、俳句に特化すれば、おそらく「俳句分類」という気が遠くなるような仕事が、最も重要であろうと思います。そのきっかけとなったのは、夏目漱石との若き日の論争が出発点らしいというも面白い。

子規自身も、「この仕事には終わりが無い。終わるとすれば自分が死ぬときだ」と述べていて、生涯の仕事と位置付けていました。明治22年、22歳の時に始まった古句の収集は、その後の10年間で12万句を越えています。現代のようにパソコンで整理するにしてもめまいがしそうな仕事を、すべて手書き・手作業で行っていたことに驚きます。

全66冊に分かれていて、そのうち大部分を占める53冊は歳時記のような季題による分類、残りの13冊は季語以外のいろいろな分類となっています。しかし、あまりにも膨大な量故に、現代の自分たちがそれを目にする機会はめったになく、見たとしてもそれを作句・鑑賞に利用することはかなり困難だろうと予想します。

子規は、季語による分類以外にも、例えば一つの言葉が様々な意味を持って使われていることを明らかにし、その中には客観的な物から観念的な物、あるいは古来から近代の科学的用語にも及びます。

古句を渉猟していくうちに、おそらく子規は、見つけた句がつまらなく思ったり、楽しくなったりしながら、芭蕉・蕪村の偉大さを確認したわけで、それらが今に続く俳諧師の評価にも受け継がれていることは間違いありません。

また、あらたに発見した表現方法などは明らかに自身の句にも生かされ、作句・推敲によって後世に残る名句としての条件を高めていったことでしょう。

例として、名句とされる「若鮎の二手になりて上りけり」があります。元々は明治25年に、河東碧梧桐に宛てた手紙が初出で、原形は「若鮎の二手になりて流れけり」でした。このままだと、鮎が水にまかせて流れていくだけです。おそらく古句を分類しているうちに「鮎」が「上る」という表現をいくつも見つけて、「あっ、これだ」と膝を叩いたに違いない。

子規の俳句の創作数は、明らかに俳句分類を開始してから増えており、過去の俳諧を整理して一定の評価を与えると共に、自らの作句力を飛躍的に向上させたと言っても良さそうです。

ただし、芭蕉・蕪村以外を切り捨てたことの本当の評価については、多少疑問の余地が残るかもしれません。子規が「これが俳句だ」という形を作り上げたことで、文学としての位置づけがなされた反面、子規から高濱虚子に至る「ホトトギス」系が主流であり、それ以外を亜流とする考え方は、今に至るも見え隠れしていると言う印象を持ちます。