俳句「夏草やベースボールの人遠」、短歌「打ち揚ぐるボールは高く雲に入りて又落ち来る人の手の中に」は、同じ人が詠んだもの。
明治30年頃に詠まれたこれらは、当然野球についてのもの。プロ野球が成立したのは昭和9年のことですから、それよりも40年ほど前、まさに日本にアメリカのベースボールが紹介されたごくごく初期のことです。
詠んだのは、正岡子規。俳句の世界では、俳聖芭蕉に次ぐと言ってもよい大人物で、今でも使われる漢字の野球用語の多くは子規考案とされ、野球殿堂博物館入りしています。
1867年、松山市に生まれた子規は、8歳で漢詩を学び、17歳で俳諧を始めます。しかし、22歳で喀血し当時は不治の病と言われた肺結核と診断されます。これを機に、自分の俳号を「子規」としました。
子規は時鳥(ホトトギス)の別名。ホトトギスの口が赤いことから、古い中国の故事にならって「鳴いて血を吐くホトトギス」という表現が一般化していたため、子規は血を吐いた自分になぞらえたものです。
28歳の時に日清戦争に従軍するも、戦わずして終戦となりその帰路に再び喀血し、親友だった夏目漱石(漱石はもともと子規の俳号の一つ)の誘いに応じて松山に戻り静養します。しかし、すぐに上京し母と妹と共に台東区根岸に子規庵をかまえ、文筆活動を続けました。
30歳ごろには脊椎に結核が広がり(脊椎カリエス)、激しい痛みのために歩行もままならない状態になりますが、ほとんど寝たきりの状態の絶望の中で筆を取り続け、34歳で眠るように子規庵にて息を引き取りました。
過去の俳諧を徹底的に調べ上げて、言葉合わせの月並みな俳諧を否定し、心情を深くにじませる芭蕉を高く評価しました。そして、見たことを見たままに詠み込む「写生」を重視し、近代文学として確立し「俳句」と呼ぶようになりました。
誤解を恐れずに言うならば、今の「俳句」は子規から始まります。いろいろな議論がありますが、少なくとも短い生涯で俳句は2万5千句、短歌は2千5百首を残した偉大な文豪であることは間違いありません。
夏井いつき氏の著書で「子規365日」というのがあります。この中で紹介された名句・秀句・珍句を自身のYouTubeチャンネルのシリーズで、季重なり、「や」や「けり」の使い方、「暑さ」や「色彩」の表現などの学びの見本として紹介していました。
松山市立子規記念博物館では、子規の俳句をデータベース化して公開しているので、興味を持たれた方はネットで確認するとよいと思いますが、ここでは夏井氏がYouTubeで紹介した句を列挙するにとどめます。
春や昔十五万石の城下哉
松山や秋より高き天守閣
うれしさにはつ夢いふてしまひけり
おお寒い寒いといへば鳴く千鳥
蒲公英(たんぽぽ)やローンテニスの線の外
蝶飛ブヤアダムモイブモ裸也
君を待つ蛤鍋や春の雪
馬ほくほく椿をくぐり桃をぬけ
摘草や三寸程の天王寺
春雨やお堂の中は鳩だらけ
春の夜や寄席の崩れの人通り
春菊や今豆腐屋の声す也
菜の花やはっとあかるき町はづれ
故郷やどちらを見ても山笑う
昼過ぎや隣の雛を見に行かん
若鮎の二手になりて上りけり
飛び込んで泥にかくるる蛙哉
蜂の巣に蜂の居らざる日和哉
板の間にひちひちはねるさくらだい
夕桜何がさはって散りはじめ
花御堂の花しほれたる夕日哉
梅雨晴れやところどころに蟻の道
花一つ一つ虻もつ葵哉
川セミノ来ル柳ヲ愛スカナ
枇杷の実に蟻のたかりや盆の上
火串消えて鹿の嗅ぎよるあした哉
田から田へうれしさうなる水の音
茗荷よりかしこさうなり茗荷の子
瓜くれて瓜盗まれし話かな
花守と同じ男よ氷室守
家のなき人二万人夏の月
痰吐けば血のまじりたる暑哉
猶熱し骨と皮になりてさえ
ぐるりからいとしがらるる熱さ哉
生きてをらんならんといふもあつい事
腹中にのこる暑さや二万巻
大仏に二百十日もなかりけり
秋の蝶動物園をたどりけり
淋しさの三羽減りけり鴫の秋
松に身をすって鳴けり雨の鹿
色里や十歩はなれて秋の風
鶏頭の黒きにそそぐ時雨かな
しぐるるやいつまで赤き烏瓜
黒キマデニ紫深キ葡萄カナ
冬ざれの厨に赤き蕪かな
穴多きケットー疵多き火鉢かな
冬の日の筆の林に暮れて行く
画室なる蕪を贈って祝ひけり
何はなくと巨燵一つを参らせん
正岡子規