2022年8月26日金曜日

俳句の鑑賞 9 子規を深読み


いくたびも雪の深さを尋ねけり 正岡子規

正岡子規の名句をしっかりと鑑賞する勉強をしてみます。まず解釈。これは蒸すが強い言葉は含まれていないので簡単です。「積もり始めて雪の深さを、繰り返し近くの人に尋ねたものだ」ということ。

句の構造は、まさに有季定型で、上五・中七・下五です。季語は中七に含まれ、晩冬の天文となる「雪」です。頭から、一気に読み切る「一物仕立て」であり、最後に詠嘆を表す切れ字の「けり」で過去の思い出を断言しています。

雪が降りだすと、大人になると必ずしも喜んでばかりはいられないのですが、こどもたちは楽しくてしょうがない。たくさん積もったら、雪合戦をしたり、雪だるまを作ったりと外に出て遊ぶことばかりを楽しみにするのは今も同じ。

窓から時々外をのぞいては、お母さんに「もう何センチ積もったかなぁ? もう遊べるかなぁ?」と待ちきれずに何度も何度も尋ねているような光景が浮かんできます。

しかし、作者の子規の状況を知ると場面は一転します。これは明治29年、30歳の時に詠まれた作品ですが、その頃子規は脊椎カリエス(背骨の結核)と診断され、激しい痛みのため自由がきかなくなり、床に臥せる生活を余儀なくされたのです。

根岸の子規庵で、身を起こして窓の外を自らのぞくことが出来ない子規は、おそらく同居していた母親の八重か妹の律に「どのくらい積もったのか?」と聞くしかできなかったのでしょう。何度も何度も同じことを聞くこどものような子規に対して、二人はどんな気持ちで積雪の実況中継をしたのでしょうか。

紫陽花やきのふの誠けふの嘘 正岡子規

解釈は、「色がしだいに変わっていきさまざまな顔をみせてくれるアジサイの花は美しいが、まるで昨日の誠は今日には嘘に変わっていることに似ている」というところでしょうか。

子規の「紫陽花」を使った句は42句あり、季語としては仲夏・植物の扱いです。花が開いてから、順に色彩が変化するところがしばしば注目されます。構造は有季定型で、上五が季語で切れ字「や」で呼びかけの詠嘆をしています。

季語の「紫陽花」のみは目の前にあって直接観察した(俳句では写生と呼ぶ)かもしれませんが、中七・下五は率直な作者の心情を発露した形で、「取り合わせ」の形式になっています。

この句は明治25年、26歳の作品。すでに結核と診断されていたものの、まだまだ元気な青年で、親友・夏目漱石と過ごした東京大学を中退し、叔父の紹介で新聞「日本」の記者となっていました。

おそらく社会に出た子規は、いろいろな都合でころころと変わっていく事柄に驚いたに違いありません。昨日の嘘が今日は誠になることもあったかもしれませんが、たいがいは純粋な文学青年をがっかりさせることの方が多かったのだろうと想像します。

翌年、日清戦争が勃発。明治28年に子規は従軍記者となった子規は大喀血をし、寿命のカウントダウンが始まります。子規の鑑賞には、単なる作品論的な見方だけではなく、作家論的な視点も含めないといけなさそうです。

俳句を勉強する上で、子規は避けては通れない巨星ですから、しばらく子規の人生も含めていろいろな面から鑑賞を続けたいと思います。