正岡子規は、いろいろな俳号やペンネームを使っていたことはよく知られています。しかし、明治22年5月に初めて喀血し、肺結核と診断され、初めて「子規」の俳号を用いました。
卯の花をめがけてきたか時鳥 正岡子規
卯の花の散るまで鳴くか子規 正岡子規
「子規」は「時鳥(ほととぎす)」の別名で、口の中が真っ赤に見えるため「鳴いて血を吐く時鳥」と形容される鳥に、自分をなぞらえたのでした。「卯の花」は空木(ウツギ)の花のことで、旧暦の4月の別称である卯月に花を咲かせます。この頃に日本に渡来する時鳥との組み合わせは、万葉集の時代から多くの歌になっています。
どちらの句も、「時鳥」も「子規」も喀血(肺結核)を連想させる「ほととぎす」と詠みあげます。実は、子規は卯年の生まれ。卯の花は自分のことであり、ついに当時は死の病とされていた結核になってしまったこと、そしてそのために死ぬのであろうということを詠んだのでした。
当時、子規は東大予備門の学生で、知り合ったばかりの友人の一人に夏目金之助がいました。夏目は、大学を辞めて松山に帰ろうかと言う子規を見舞って、次の一句を詠みました。
歸ろふと泣かずに笑へ時鳥 夏目漱石
時鳥は、子規以外にも不如帰という漢字も充てられています。不如帰は「帰るに如かず(帰るしかない、帰りたい)」と読めることにかけて、「学問をあきらめると泣いていないで笑おうよ」と励まし、もともと子規の俳号の一つだった「漱石」を譲り受けたのです。これは、まさに世に夏目漱石が誕生した瞬間です。
しかし、余命少ないと悟った子規は大学を中退し、新聞「日本」に就職。退学したという手紙を受け取った漱石は、子規に宛てて句を詠みました。
鳴くならば満月になけほととぎす 夏目漱石
漱石は、社会に出るならちゃんと単位を取って卒業してからにしろと、叱咤しているわけで、漱石の子規に対する思いがよくわかる一句です。明治28年4月に子規は、新聞記者として日清戦争に従軍しますが、戦地に到着した時はすでに終戦。そのまま帰路のついた子規は、戦中で大喀血をし神戸で入院。生死を彷徨い8月に何とか退院し、療養のため郷里松山に戻ります。
そこで仮の住まいとしたのが、松山の中学校に英語教師として赴任していた漱石の下宿、愚陀仏庵(ぐだぶつあん)でした。周りの人は病が伝染するからと漱石を止めましたが、漱石は意に介さず、率先して子規を招き入れます。子規のもとには、同好の者が集まりしばしば句会が開催され、しだいに漱石も加わり俳人として成長します。漱石が9月に詠んだ句が新聞に載っています。
鐘つけば銀杏ちるなり建長寺 夏目漱石
そして、10月なかばになって、子規は東京に戻ることを決意して、漱石にお別れの句を詠みました。
行く我にとどまる汝に秋二つ 正岡子規
今まで同じ季節を分かち合っていたけれど、東京に旅立つ自分と、松山にとどまる漱石には、それぞれの秋が巡ってきたのだよ。ある意味、子規の決意表明です。出発した子規は、途中で奈良に立ち寄るのでした。