2022年8月29日月曜日

俳句の鑑賞 12 子規と漱石 (2)


明治28年10月、夏目漱石の下宿を辞して東京に戻る途中、子規は奈良に立ち寄ります。もしかしたら、たぶん、いやきっと子規は1か月ほど前に新聞で見た、漱石の「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」の句を思い出したに違いない。「漱石くん、頑張ったけど、俺ならもっとうまく作れるぜ」と思ったのかどうか・・・

柹食えば鐘が鳴るなり法隆寺 正岡子規

そして詠まれたのがこれ。おそらく、芭蕉の「古池や・・・」の次くらいに有名な子規の俳句です。この句をあらためて、鑑賞したいと思います。

句の構成は、典型的な有季定型の五七五です。季語は「柹(柿)」。実在する地名、奈良の法隆寺が含まれます。俳句では、このような地名や特定の建築物などを「俳枕」と呼び、季語と同じように特徴的な情景を作り出す効果を利用します。

解釈は、一般には「法隆寺で柿を食べたら、鐘の音がしてきた」というもの。子規は柿は大好物で、柿を詠んだ句はたくさんあります。おそらく法隆寺の境内の茶店かなにかで、柿を食べていたら、どこからともなく「ゴーン」と鐘の音がしてきて、とても風流だなぁと感じたという鑑賞で良いことになっています。

明治33年9月、漱石は英国留学に出発します。その直前、すでに病床に臥せり身動きもままならなくなっていた子規を訪ねます。子規は再び会うことはなかろうと伝え、次の句を漱石に送ります。実際これが最後の面会となりました。

萩すすき来年あはむさりながら 正岡子規

その後、子規は何度かイギリスにいる漱石に手紙を出したようですが、異国の地で精神的に余裕がなくなっていた漱石は返事を出すことは無く、子規は残念に思っていたようです。ただ、明治34年4月に子規・高濱虚子宛という「倫敦消息」と題する、ロンドンでの暮らしぶりを紹介する「手紙」が、子規のホームである「ホトトギス」誌に掲載されています。

この手紙を喜んだ子規でしたが、それに対して漱石に送った11月の手紙は、「僕はもーだめになってしまった、毎日訳もなく号泣して居る・・・(中略)・・・僕はとても君に再会することは出来ぬと思ふ。万一出来たとしても其時は話も出来なくなってるだろ」とあり、いかに気丈な子規でも親友に対しては弱音を吐くしかないところまで追いつめられていたのです。

明治35年9月19日、正岡子規は34歳の生涯を閉じました。11月にロンドンの漱石のもとに、高濱虚子からの訃報がやっと届きます。漱石は12月に荷物をまとめると、帰国の途に就くのです。

筒袖や秋の柩にしたがわず 夏目漱石

漱石は、訃報に対する返事の中でこの句を詠みました。筒袖は洋服の事で、2年前にいわゆる「袂を分かつ」ことになり、二度と会うことは無いと覚悟はしていましたが、「(ロンドンにいるため)葬儀に参列できなかった」ことは大変に残念であったという内容です。

夏目漱石の小説家としての処女作、「吾輩は猫である」が「ホトトギス」誌に連載を開始したのは明治38年1月のことです。最終話では子規が実名で登場し、おそらく漱石自身と重なる人物が「僕の俳句における造詣と云ったら、故子規子も舌を捲まいて驚ろいたくらいのものさ・・・(中略)・・・(子規とは)始終無線電信で肝胆相照らしていたもんだ」と語らせています。

最後に明治28年12月30日、年の瀬も押し迫った根岸の子規庵の様子を紹介します。子規は来客の準備をし、友人たちが集まって来るのを今か今かと待ちわびていました。本当にその時の光景が目に浮かぶようです。

梅活けて君待つ庵や大三十日 正岡子規

漱石が來て虚子が來て大三十日 正岡子規