降る雪や明治は遠くなりにけり 草田男
いきなりですが、超有名です。誰もが一度は耳にしたことがある俳句の一つ。これは、大学に進学した俳人・中村草田男が、自分が通った東京都港区の青南尋常小学校を訪れた際に詠んだ句。本人は、「降る雪によって、時と場所の意識が空白化し、今も明治が続いていると同時に永久に消えてしまった」と感じたと後に述懐しています。
中村草田男、本名、清一郎は、明治34年(1901年)に清国の時代の中国で生まれました。両親は旧松山藩の士族の家系ですが、父親が外務省に勤務した関係で、清国領事として赴任していたのです。3歳で帰国し松山に戻ると、7歳で上京。毎年のように都内を転居し、そのたびに小学校を転校、11歳で再び松山に戻っています。
ところが、松山で草田男は学校が嫌いになり、しだいに精神的に安定を欠くようになりました。転勤の連続で父親がずっさといないことや、旧家の長男としての様々な重圧が関係しているのかもしれません。
大正3年、県立松山中学入学(夏目漱石が奉職していた学校)。大正5年には、いわゆるノイローゼ(神経衰弱)のため、1年間休学することになります。草田男の困難を救ったのが、同級生だった伊丹万作(戦前の片岡千恵蔵の映画を多数監督)でした。復学した草田男は、ニーチェの「ツァラツストラ」を愛読し、哲学的思索に傾倒するようになります。
大正10年、やっと中学を卒業した草田男は、1年間浪人して大正11年に松山高等学校に入学し無事卒業後は、東京帝国大学へ進学しました。この間に、近親者が相次いで亡くなり、再びノイローゼがひどくなった時に、自己逃避の一助として俳句を始めるのです。
松山に住み、家には当然ように雑誌「ホトトギス」があった環境では、草田男の俳句の出発点も高濱虚子の説く「客観写生」でした。東大俳句会にも入会し、水原秋櫻子からも直接指導を受けながら、昭和4年に「ホトトギス」初入選を得ます。
前向ける雀は白し朝ぐもり 草田男
「ホトトギス」初入選句。昭和6年に秋櫻子が反「ホトトギス」を表明し脱会した後は、しだいに会の重責を担うようになります。昭和8年、大学を卒業し、吉祥寺の成蹊学園に教師として就職。
軍隊の近づく音や秋風裡 草田男
しだいに日本の軍国化が顕著になって来る昭和8年の句。「裡」は「り」と読み、「裏」と同義語で物事の内側という意味。寒々とした秋風の裏に軍隊の気配を感じ取るという、すでに「ホトトギス」の花鳥諷詠からはずれた独自の句柄になっています。
昭和10年、日野草城が発表した連作「ミヤコホテル」に対して論争が起こると、「都ホテルとは厚顔無恥な、しかも片々として憫笑にも価しない代物に過ぎない。(中略)俳句は単なる十七音詩ではなくして、同時に本質的意味で自然諷詠詩なのである」と激烈な批判を展開しました。この年、草田男は第一句集「長子」を刊行します。
萬綠の中や吾子の齒生え初むる 草田男
昭和14年の、草田男の代表句として広く知られる句。季語は「万緑」ですが、今ではよく知られたこの単語は中国の詩句に登場し、俳句の季語として草田男かここで初めて使用し、見渡す限り草木の緑色の真っ只中という意味を持ちます。自分の幼い子に初めて歯が生えてきたことの喜びを、万緑に象徴させました。
また、この年、「俳句研究」誌の座談会「新しい俳句の課題」に出席。司会は評論家・山本健吉で、同席したのは、当時「馬酔木」に属していた加藤楸邨、石田波郷でした。三人は「人間の探究」が必要であるという点で共通の認識を確認したことで、「人間探求派」と呼ばれるようになる一方で、「難解派」とも称されることになります。
焼跡に遺る三和土や手毬つく 草田男
空襲により焦土と化した街並みの瓦礫の中に平らな三和土(たたき)が残っていて、こどもたちは無邪気に毬突きをして遊んでいるという様子。終戦により、俳壇も少しづつ活動が再開され、草田男も昭和21年に「萬綠」を主宰することになりました。
同年、再び俳壇に激震が走ります。フランス文学者の桑原武夫が「第二芸術 - 現代俳句について 」を発表し、思想的無自覚な俳句創作態度を、「到底芸術とは呼べず、あえていうなら病人や年寄りお楽しみ程度の第二芸術である」と痛烈に批判します。ここでも、草田男は反論を積極的に行いました。
昭和22年、石田波郷、西東三鬼らと現代俳句協会を結成。草田男は、精力的に活動を続け、昭和34年、虚子没後の「朝日俳壇」選者を引き継ぎます。昭和36年、運営方針に賛同できなくなったため現代俳句協会を辞し、石田波郷らと新たに俳人協会を設立しました。昭和58年7月肺炎を発症し、8月5日に82歳で亡くなりました。
草田男という俳号の由来は、俳句を始めた頃に親類から、一家の長男として「お前は腐った男だ」と叱られたことから、「くさったお」を思いついたらしい。腐っているかもしれないが、そうじゃなくなって見せるという反骨精神のようなものがあったのでしょう。
山本健吉評。「草田男の本質はメルヒェンの世界」とし、その根源には、伊丹万作らの松山の友人たち、多くの西洋の芸術家たち、そしてカトリックへの信仰などがベースになっていると指摘しています。俳句の世界にとどまらない、文学者としてもっともかけがえのない存在であると最大級の賛辞を贈っています。