加藤楸邨(しゅうそん)、本名、健雄は明治38年(1905年)に東京で生まれました。父親が鉄道勤務で転勤が多く、楸邨も各地を転々として父親の定年により金沢に落ち着いたのは旧制中学の頃でした。大正14年、父親が病没し、一家は水戸に転居し、楸邨は水戸で代用教員の職に就きます。
しかし、翌年単身上京し苦学して東京高等師範学校に入学。昭和4年に卒業し、埼玉県春日部市の中学校教諭に採用されます。ここで仕事仲間からの誘いで句作を始め、俳号は当初「冬村」でしたが、「柊村」となり「楸邨」に落ち着きます。少年期より読書が好きで、古典、思想書などを愛読していたので、文学的素養はしっかりとしたものがあったようです。
昭和6年、仕事で春日部に来た水原秋櫻子と会う機会があり、以後「馬酔木」に投句をするようになります。 昭和10年、「馬酔木」同人となり、俳論の寄稿も積極的に行うようになりました。昭和12年、教諭職を辞し「馬酔木」に就職すると同時に東京文理科大学に入学します。
棉の実を摘みゐてうたふこともなし 楸邨
冬に没る金剛力に鵙なけり 楸邨
第一句集冒頭句。初期の作品であるので、自然諷詠ですが、歌うこともないとは間違いなく人の営みであり、棉の実を摘むことが楽しいわけではないということでしょうか。次の句も難しい。「冬に没る(いる)」は「冬になって」ということ。金剛力は木々の葉が黄色くなり、まばらになっていく様子だと思いますが、そこを弱々しさではなく力強さで表現し、鵙(モズ)が確信をもって鳴くということだと思います。
昭和14年、「俳句研究」誌の座談会に中村草田男、石田波郷らと出席し、発言内容から彼らは「人間探求派」と呼ばれ、その俳句は難解と言われるようになります。昭和15年に大学を卒業した楸邨は、俳誌「寒雷」を刊行し主宰となりました。創刊の巻頭言に「俳句の中に人間の生きることを第一に重んじる」とし、誌名は前年に秋櫻子の序を頂いた第一句集から来ています。
鰯雲人に告ぐべきことならず 楸邨
代表句とされる有名な句で、鰯雲が見える秋の空を眺めながら、いろいろと心の中で思っていることを口に出すものではないと考えている作者がいるということです。
つひに戦死一匹の蟻ゆけどゆけど 楸邨
知人の戦死の知らせを受け、地面を見ると一匹の蟻がひたすら這っていく様子が目に入った。ただ進んでいく蟻に知人の姿を重ねた思いを詠んだものでしょう。
十二月八日の霜の屋根幾万 楸邨
昭和16年12月8日、日本は真珠湾攻撃を仕掛けアメリカに対して宣戦布告しました。朝、ラジオで「我が国は戦争状態に入れり」とニュースが流れます。それを聞いた作者は、家々に降りた霜がきらきら輝くのをどのように見たのでしょうか。
戦後は戦争協力者という非難を受けることがありましたが、次第に俳壇での活動を活発化させます。昭和29年、青山学院女子短期大学教授に就任し、俳壇の多くの受賞、受勲を成し遂げ、平成5年、88歳で亡くなりました。
木の葉ふりやまずいそぐないそぐなよ 楸邨
病床にあった時に、落ちて散りゆく木の葉に向かって、「急ぐな急ぐなよ」とつぶやく自分を詠んだもので、それは自分に向かって発せられたものでもあったのでしょう。
人間探求をテーマに俳句革新の中心となり、輩出した多くの多様な門下の俳人は「青邨山脈」と呼ばれ、戦後俳壇の中心となっていきました。
山本健吉評。「楸邨はカオスを含んでおり、話しているうちに新しい問題に突き当たり、考え込みさらに前進する」と人柄を表現し、その作品は「庶民的な凡愚の生活感情」が根本にあり、「暖かい人間的な善意に満ちていて、求道者的魂が貫ていいて感動の振幅が人一倍巨大である」と述べています。