2022年11月13日日曜日

俳句の勉強58 落葉で苦心


寒くなって来ると落葉は、そこらじゅうで見ることでできます。当然、冬の季語になっていて、単独以外にも「落葉掃く」、「落葉焚く」、「落葉時雨」などの傍題も使われます。

まだ木に残っていて散りそうなのか、木からは垂れてゆらゆらと落ちているのか、あるいは地面に溜まっているのか、時間的な変化もあったりして、バリエーションがありそうなんですが、たいてい何かが終わる寂しさみたいな共通の感情を呼び起こすので、発想が固定化されやすい。

待人の足音遠き落葉かな 蕪村

落葉がたくさん道に落ちていて、人が歩くとカサ、カサっと音がする。人を待って耳を澄ますと、まだまだやってくる気配が無いなあというところでしょうか。人を待ちわびて、一人でいる寂しさが表現されています。

西吹けば東にたまる落葉かな 蕪村

これも蕪村ですが、何か当たり前感のある句。西から風が吹いて、東側に落葉が溜まっているということ。「菜の花や月は東に日は西に」のセルフカバーみたいな感じです。

焚くほどに風がくれたるおち葉かな 一茶

現代ではそこらで簡単に焚火をするわけにはいかなくなったので、落葉炊きというのは死語に近いものがあります。焚火の中でサツマイモを焼くなんていうのも、ほぼ消滅した風習なので、今さら俳句に盛り込んでも嘘っぽいだけになってしまいます。

野良犬よ落葉にうたれとび上がり 西東三鬼

陽だまりでうとうとしている野良犬がいて、ゆらゆらと落ちて来た落葉に「打たれ」るという大袈裟な表現が面白い。でも、そのくらい驚いてビクンとなるというのは、いかにもありそうな光景として納得できます。

雄鶏や落葉の下に何もなき 西東三鬼

戦後すぐに詠まれた句で、一生懸命餌を探して落葉の下をつついて回る雄鶏は、敗戦後の困窮した日本人を重ね合わせることができます。でも、そこには何もないという、辛さがにじみ出てくるわけで、人の生活の匂いが強く感じられます。

そこまで鑑賞に耐えることができる句が詠めなくてもいいんですけど、とりあえずいろいろ考えてみましたが、やはり同じ発想の中をぐるぐると回るだけの凡人の域をなかなか出られません。

停車場の落ち葉を連れて郷帰り

落葉連れ夜行のバスは故郷へ

どこからか落ちて来た落葉の一枚が、夜行バスにひらりと入って、一緒に故郷に帰るんだなぁ、ということなんですが、「停車場」というのがわかりにくいかなと思って、直接的な「夜行バス」を使ったものも考えてみました。停車場のほうがいろいろと郷愁を誘うと思いますが、落葉よりも目立ってしまう感じがします。

夜行バス旅のお供は落葉かな

切れ字の項かは絶大で、「かな」をつけるだけで一気に「落葉」が主役に躍り出る感じになりますが、どういじっても「だから、何?」という程度の俳句ですね。

末社にも吹き溜まりたる落葉あり

神社には主たる祀神をおさめた本殿以外に、別の神を祀る小さな末社が併設してあることがよくあります。たいてい端の方にあるので、落葉の吹き溜まりになったりしていますが、手入れが疎かになりやすいのかもしれないけど、落葉でくるまれて寒さもしのげているのかなぁという句です。

山に入り踏まれ踏まれし落葉路

山に入って道がわからなくなったけど、何度も誰かに踏まれて落葉が踏み固められた道があったので助かったという感じです。「踏む」を繰り返すことで何度も何度もという感じをだしてみました。ですが、相変わらず、駄句量産という感じですね。