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2022年11月2日水曜日

俳句の鑑賞 37 鷹女と多佳子


三橋鷹女、本名、たか子は、昭和初期に活躍した女流俳人の中で、「ホトトギス」との関係が無い例外的な存在です。明治32年(1899年)に千葉県成田で生まれました。県立成田高等女学校を卒業、歌人が多い家族の影響で短歌に親しむようになりました。

23歳で歯科医の夫と結婚し、夫の影響で俳句を始めました。近所の句友と句会を行ったりしていましたが、夫と共に原石鼎(はらせきてい)の「鹿火屋(かびや)」、小野蕪子の「鶏頭陣」などに参加しました。

「ホトトギス」の「台所俳句」とはまったく一線を画した女流俳句を発表するようになりました。戦後も新興俳句系の「俳句評論」を中心に活躍し、昭和47年に72歳で亡くなっています。

蔓踏んで一山の露動きけり 鷹女

山路で蔓を踏んだ途端にざっと落ちて来た露に山全体が動いたように思えたという、小さい物から大きな物へダイナミックに飛躍していく、当時の女流の中ではまったく傾向の違う研ぎ澄まされた感性が表出する俳句です。

夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり 鷹女

ひるがほに電流かよひゐはせぬか 鷹女

客観写生とは対極にあるような、自分の感情を激しく前面に打ち出した主観句であり、鷹女からすれば台所俳句は相当生ぬるいものに見えただろうと感じます。昼顔が凛と咲いている様子は、まるで電気が流れているかのように見えるという感性がすごい。

あたたかい雨ですえんま蟋蟀です 鷹女

何者か来て驚けと巻貝ころがる 鷹女

鮮烈な文語表現を駆使したかと思うと、一転して口語での自由律も鮮やかに使い分けるところも面白い。いずれも対象物の主観が立つ句で、独特の物の見方は誰も真似できないところです。

山本健吉評。鷹女は「その特異な句風は(早くから)俳壇に印象づけられていた」もので、「多くの女流俳人の句が、おおむね一色の特色にぬりこめられているのに較べれば、たいへん変化が多く、多彩である」としています。

橋本多佳子は明治32年(1899年)、東京の本郷で生まれましたが、18歳で建築家、橋本豊次郎と結婚し、福岡県小倉市にモダンな洋館「魯山荘」を立て移住しました。

大正11年、高濱虚子か門司を訪れた際、魯山荘で句会が開催され、その時の虚子の「落椿投げて暖炉の火の上に」に感銘を受けた多佳子は、杉田久女の勧めもあって久女の手ほどきで俳句を始めました。

昭和2年、「ホトトギス」に初入選しますが、昭和4年に大阪に転居、ここで山口誓子に師事したことから、水原秋櫻子主宰の「馬酔木」に移りました。戦後も誓子と行動を共にして「天狼」に参画しています。男性俳人を凌駕する戦後の活躍が目覚ましく、昭和38年、64歳で病没しました。

たんぽぽの花大いさよ蝦夷の夏 多佳子

「ホトトギス」初入選の俳句。「ホトトギス」らしいと言えばらしい句で、後年の多佳子の句とは異なります。

月光にいのち死にゆくひとと寝る 多佳子

雪はげし抱かれて息のつまりしこと 多佳子

「ホトトギス」離脱後は、誓子と関わるようになって、女性ならではの感性のもと主情的な激しい表現を盛り込むようになりました。男性たちに負けまいという気持ちもあったかもしれませんが、生来の心の強さを隠さず表出した結果であろうと想像します。

白桃に入れし刃先の種を割る
 多佳子

一ところくらきをくぐる踊りの輪 多佳子

これらも多佳子の代表作として知られているもの。「切れ字」を使用を控えて、作者の視点が冷静に一点に集中していく力強さがはっきりと描かれています。ふだん誰も気にしないであろうところを、描き出す力があります。

臥して見る冬燈のひくさここは我家 多佳子

雪はげし書き遺すこと何ぞ多き 多佳子

晩年、胆管がんによる入院生活から退院しての句。自分の死期を悟っているのかもしれませんが、やや弱気な印象。一方で、生への執着のようなところも見てとれ、往年の力強さは失われていないようです。

山本健吉評。多佳子の句は「女流の俳句としての魅力を極度に具えている」のと同時に「女性として情に流される弱点」もあるとしています。

また、山口青邨が水原秋櫻子、高野素十、阿波野青畝、山口誓子の四人を「ホトトギス」の「四S」と称したのにならって、山本健吉は中村汀女、星野立子、三橋鷹女、橋本多佳子を「四T」と呼びました。

典型的な「ホトトギス」の花鳥諷詠を守った前二者に対して、後二者は主観的な感情吐露を恐れない力強い句を作り対照的です。主観が勝ると女性らしい視点がはっきりし、女流としての特徴が明確になることがよくわかります。