2022年11月15日火曜日

俳句の鑑賞 44 川端茅舍


川端茅舍(かわばたぼうしゃ)、本名、信一は、明治30年(1897年)に東京の日本橋蛎殻町で生まれました。風流人だった父親の影響で、当初は西洋画家を目指していました。その一方で、17歳のころから茅舍の俳号を名乗り、飯田蛇笏の「キララ(後の雲母)」へ投句をするようになりました。

しかし、結核を患ったため画家の道は断念し、俳句に専念するようになります。「ホトトギス」に投句するようになると高濱虚子より高く評価され、昭和9年に同人となりました。松本たかしとの深く交流し、互いに影響し合いましたが、昭和16年、肺結核により43歳の若さで死去しました。

りうりうとして逆立つ露の萩 茅舎

女性的な表現に似合う萩を、「りうりう」という威勢の良い表現を使っているところが面白い。普通は下に向いていく可憐な花だが、花から見始めると上に行くにしたがって太くたくましくなっているということでしょう。

水馬青天井をりんりんと 茅舎

「水馬」はみずすましのこと。みずすましは水面をすいーすいーっと進んでいくわけで、その水面に青空が映っていたことで、まるで天井を「どうだ」と言わんばかりに進んでいく。これも普通の視点を逆さまにした発想が興味深い句です。

咳われをはなれて森をかけめぐる 茅舎

火の玉の如くに咳きて隠れ棲む 茅舎

正岡子規のように、短い人生の半分は寝たきりだった茅舎ですが、咳が出たすと大変苦しかったのだろうと思います。しかし、咳そのものが「苦しい」、「辛い」というように直接的に詠むことはなく、その病苦すら客観的に写生したのかもしれません。

青き踏み棹さす杖の我進む 茅舎

昭和16年の句で、おそらく自分でままならなかったであろう、春になって生えてくる青々とした草を踏みしめるということを 杖を頼りに少しでも楽しんだのかもしれません。病苦の中でも、表現は勇ましい。

夏痩せて腕は鉄棒より重し 茅舎

亡くなった後に「ホトトギス」の巻頭に掲載された句。苦悩の中でも、茅舎の句が力強く響くのは、否定的な表現をほとんどしないところと、軽やかな物でも重たい表現をすることで重厚感が生み出しているのだろうと思います。

また季語の使い方がうまい。季語とそれ以外が、別の内容になっていてより多くを語ろうとする俳句が多いのですが、茅舎は季語が全体の中ですっぽりとはまっていて、軽く読み流すと季語だと気が付かないくらい同化しているように思います。

戦前の「ホトトギス」において、四Sの後に、さまざまな逆境を抱える虚子にとっては、中村草田男、松本たかし、そして川端茅舎の3人がどれだけ心強かったことだろうと想像できます。