2022年11月21日月曜日

俳句の鑑賞 45 金子兜太


金子兜太(とうた)は、「ホトトギス」の絶対性が弱まった戦後の俳壇を牽引した最重要人物と言えそうです。大正8年(1918年)に埼玉で生まれましたが、旧制熊谷中学を卒業後は水戸に転居し、旧制水戸高等学校に入学し、ここで学友に誘われ句会に参加し、初めて詠んだ句があります。

白梅や老子無心の旅に出る 兜太

いきなりこれだけ高尚な内容を詠むとは只者ではない。ここで詠まれた漂泊の心情は、兜太の人生をすでに象徴しているかのようです。医師であった父親は、「馬酔木」に参加し伊昔紅(いせきこう)という俳号を持っており、自らも俳句誌を創刊する人物でした。間接的に、父親の影響が兜太にあっただろうと想像されます。昭和16年、東京帝国大学へ入学し、加藤楸邨主宰の「寒雷」に投句するようになり師事します。

貨車長しわれのみにある夜の遮断機 兜太

閑古鳴く女さらさらと帯を巻く 兜太

リアカーに秋鶏上り農夫の死 兜太

若き日の句。長い貨物列車のため、ずっと遮断機が下りた夜の踏切で一人だけで待っている自分。ひなびた遊郭に行ったのか、女はさっさと着物を着ているところを冷めた目で見ている自分。農夫が死んでしまったため、引かれることがなく放置されたリアカーに鶏が乗っているのを眺めている自分。いずれも、人の営みを客観的、冷静に観察した独特の視点が表現されています。

昭和18年、戦時下において繰り上げ卒業となった兜太は、日本銀行に就職するも、出勤3日で出征し、激戦の南太平洋、トラック諸島へと送り込まれます。補給の道を断たれ餓死者も出る凄惨な戦場体験をし、奇跡的に命をつないでアメリカ軍の捕虜となり、昭和21年11月に何とか復員することが出来ました。有名な俳人の中では、本格的な激しい戦闘を実体験した数少ない一人です。

焚火の煙無人の磯へ溢れ落つ 兜太

青きバナナ部屋の真中に吊りておく 兜太

流れ星蚊帳を刺すかに流れけり 兜太

スコールの雲か星を隠せしまま 兜太

出征前夜、父と千葉の白浜を訪れた兜太は、焚火の煙に自分の未来を見たのかもしれません。続いて、トラック島での生活を詠んだもので、苦しい日々だろうと思いますが、バナナや流れ星に束の間の安らぎを覚えたのでしょう。そして、敗戦がわかり、もう星を見ることは無いと覚悟したということ。

水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る 兜太

水脈(みお)は地下水の流れの意味ですが、トラック島では雨水くらいしか飲料水が無かったことをさしているのだろうと思います。強い日差しにさらされる死んだ仲間たちの墓碑を残して、この場所を自分は去って日本に戻るということでしょう。

日本に戻った兜太は日本銀行に復職しますが、労働組合運動に身を投じたため、レッド・パージ(赤狩り)に引っ掛かりますが、組合を抜け出世をあきらめたことで、何とか逮捕はまぬがれました。その結果、福島、神戸、長崎と転々と移動させられ、昭和35年に本店に戻ると、本人曰く「窓奥族(窓際よりももっと奥)」として昭和49年の定年まで勤めました。

会津の山山雲揚げ雲つけ稲田の民 兜太

港祭の空映る窓外人透く 兜太

湾曲し火傷し爆心地のマラソン 兜太

転勤先でも、その土地土地で俳句を詠んでいます。特に代表句として有名なのが長崎の句。長崎の街を走り抜けていくマラソン・ランナー。その苦しそうな様子から、ここがかつて爆心地であったことに思いが飛ぶのです。

梅咲いて庭中に青鮫が来ている 兜太

庭で梅が満開で綺麗というだけならわかりますが、そこに登場するのが青鮫というファンタジー作品。本人は春の到来を喜んでいる句と説明していますが、それにしても理解しにくい。どうやら、兜太の心の中では、戦地に赴き帰ることができた人なら誰もが少なからず持っている自己嫌悪、仲間は死んでいったのに自分は助かったと卑下する気持ちがあったのではないでしょうか。青鮫は、死んだかつての仲間たちととらえることができるようです。数々の功績を残して、平成30年2月、兜太は肺炎のため息を引き取りました。98歳でした。

社会的ですが、あくまでも自分の思索的な客観性がそう見えるのかなと思いますが、そこがずっしりと重みのある独特の表現をまとって俳句となっている。さすがに、誰かが真似して真似できるすじではありません。

兜太は種田山頭火の研究にも功績かありますが、本人の句は完全な自由律というのはほとんど見られない。基本的には有季定型、字余り句またがりは自由という句作りのスタンスだろうと思います。今の俳句の主流がまさにそれであり、金子兜太の俳句が現代俳句のメインストリームになっているように思いました。