ジョーン・バエズ・・・と呼ぶのが日本では定着していますが、ネイティブには「バイェズ」と発音する方が正しいらしい。ニューヨーク出身ですが。顔立ちからも想像できるようにメキシコ系の生まれで、アメリカの女声フォーク・シンガーとしては第一人者という評価は間違っていません。
生まれたのは1941年で、ボブ・ディランと同い年、誕生日は4か月ほど早い。バエズがいなければ、ディランは誕生しなかったとまでは言えないにしても、世間に知られるのは相当遅れたことだけは確実です。
バエズは13歳の時にピート・シーがーのコンサートを体験したことで、フォーク・ソングに強い興味を持ち、ボストン大学に進学したものの音楽活動に没頭するようになりました。大学を中退して、クラブで歌うようになり、1959年の第1回ニューポート・フォーク・フェスティバルで飛び入りでステージに立ち、その圧倒的な歌唱力と美声でいっきに有名になります。
多くのレコード会社から誘いを受けたバエズでしたが、小さなヴァンガードという会社と契約。1960年10月に、デヴュー・アルバムが発売されます。これはニューヨークのダンスホールで、ボーカル用とギター用の2本のマイクだけで、一発録りというシンプルな方法でしたが、よりリアルな雰囲気を伝えることに成功していると評価されました。
バエズの生まれた家は、キリスト教の一種であるクエーカー教を信仰していました。クエーカー教は、神父などの仲介者を介さなくても神の精神は個々の中に直接存在すると教えられます。つまり、すべての人は平等であるということが基本であり、絶対的な平和主義のもと暴力を否定します。
従って、その音楽活動もごく自然に平等を訴え、暴力を否定する方向に向かい、公民権運動や反ベトナム戦争というような反体制的な方向が顕著になります。そのため。当時のアメリカ政府機関からは危険人物として監視されていたと言います。
1961年、すでにフォークの女王と呼ばれるようになっていたバエズは、グリニッジ・ヴィレッジのフォーク・クラブで、ミネソタから出てきたばかりの無名の若者だったボブ・ディランと知り合います。外見や声はともかく、ディランの曲には非凡なものを感じ、自信のコンサートにゲスト出演させ世間にディランの存在を広める手助けをしました。
1963年のニューポート・フォーク・フェスティバルでは、ディランと同じステージに登場しデュエットをしたこともあって、ディランの人気は確実なものになったと言えます。この頃から、明らかに二人の関係は恋人であったことは間違いなく、お互いのコンサートに帯同するようになります。
しかし、1965年のニューポートで、ディランはロック化宣言をして反体制的なフォークから距離を置くようになります。1966年のイギリス・ツアーでは、バエズも同行しましたが、以前のようにステージに呼ばれて一緒に歌うことはありませんでした。なんとかフォークの世界にとどまるようにとバエズは説得しますが、ディランは次第にバエズに対して冷淡になり二人の関係はツアーの後で決裂したと言われています。
その後バエズの反戦活動はより活発になり、徴兵反対運動では2回逮捕されています。1968年に反戦活動家のデヴィッド・ハリスと結婚しますが、ハリスは徴兵拒否ですぐさま逮捕・収監されています。1973年のクリスマスには北ベトナムのハノイを訪問し、折しもアメリカ軍の大規模な爆撃に遭遇し、防空壕の中で歌い続けるという体験もしています。
1975年には、ディランの「Rolling Thunder Revue」ツアーに誘われて、10年ぶりに二人はデュエットを行いましたが、夫婦仲が不安定なディランの私生活の乱れなどから、しだいにツアーは荒れてしまい、バエズも多くの不満を抱えることになってしまいます。
その後もバエズはアムネスティ(国際人権NGO)活動への協力や、南米の軍事政権批判などの活動を続け、一貫して自由・平等の心情を突き進んでいましたが、音楽活動は2018年に引退を表明しています。
2023年にバエズの活動を振り返るドキュメンタリー映画「I Am A Noise」が公開されました。楽しいだけではない苦しいことも多かったバエズの音楽人生が、主観的かつ客観的にまとめられていて、大きな話題とになりました。また、デヴューから1966年までのディランを追いかける伝記映画「名のなき者 / A Complete Unkown」がティモシー・シャラメ主演で公開され、バエズとの関係も詳しく描かれています。
バエズは13歳の時にピート・シーがーのコンサートを体験したことで、フォーク・ソングに強い興味を持ち、ボストン大学に進学したものの音楽活動に没頭するようになりました。大学を中退して、クラブで歌うようになり、1959年の第1回ニューポート・フォーク・フェスティバルで飛び入りでステージに立ち、その圧倒的な歌唱力と美声でいっきに有名になります。
多くのレコード会社から誘いを受けたバエズでしたが、小さなヴァンガードという会社と契約。1960年10月に、デヴュー・アルバムが発売されます。これはニューヨークのダンスホールで、ボーカル用とギター用の2本のマイクだけで、一発録りというシンプルな方法でしたが、よりリアルな雰囲気を伝えることに成功していると評価されました。
バエズの生まれた家は、キリスト教の一種であるクエーカー教を信仰していました。クエーカー教は、神父などの仲介者を介さなくても神の精神は個々の中に直接存在すると教えられます。つまり、すべての人は平等であるということが基本であり、絶対的な平和主義のもと暴力を否定します。
従って、その音楽活動もごく自然に平等を訴え、暴力を否定する方向に向かい、公民権運動や反ベトナム戦争というような反体制的な方向が顕著になります。そのため。当時のアメリカ政府機関からは危険人物として監視されていたと言います。
1961年、すでにフォークの女王と呼ばれるようになっていたバエズは、グリニッジ・ヴィレッジのフォーク・クラブで、ミネソタから出てきたばかりの無名の若者だったボブ・ディランと知り合います。外見や声はともかく、ディランの曲には非凡なものを感じ、自信のコンサートにゲスト出演させ世間にディランの存在を広める手助けをしました。
1963年のニューポート・フォーク・フェスティバルでは、ディランと同じステージに登場しデュエットをしたこともあって、ディランの人気は確実なものになったと言えます。この頃から、明らかに二人の関係は恋人であったことは間違いなく、お互いのコンサートに帯同するようになります。
しかし、1965年のニューポートで、ディランはロック化宣言をして反体制的なフォークから距離を置くようになります。1966年のイギリス・ツアーでは、バエズも同行しましたが、以前のようにステージに呼ばれて一緒に歌うことはありませんでした。なんとかフォークの世界にとどまるようにとバエズは説得しますが、ディランは次第にバエズに対して冷淡になり二人の関係はツアーの後で決裂したと言われています。
その後バエズの反戦活動はより活発になり、徴兵反対運動では2回逮捕されています。1968年に反戦活動家のデヴィッド・ハリスと結婚しますが、ハリスは徴兵拒否ですぐさま逮捕・収監されています。1973年のクリスマスには北ベトナムのハノイを訪問し、折しもアメリカ軍の大規模な爆撃に遭遇し、防空壕の中で歌い続けるという体験もしています。
1975年には、ディランの「Rolling Thunder Revue」ツアーに誘われて、10年ぶりに二人はデュエットを行いましたが、夫婦仲が不安定なディランの私生活の乱れなどから、しだいにツアーは荒れてしまい、バエズも多くの不満を抱えることになってしまいます。
その後もバエズはアムネスティ(国際人権NGO)活動への協力や、南米の軍事政権批判などの活動を続け、一貫して自由・平等の心情を突き進んでいましたが、音楽活動は2018年に引退を表明しています。
2023年にバエズの活動を振り返るドキュメンタリー映画「I Am A Noise」が公開されました。楽しいだけではない苦しいことも多かったバエズの音楽人生が、主観的かつ客観的にまとめられていて、大きな話題とになりました。また、デヴューから1966年までのディランを追いかける伝記映画「名のなき者 / A Complete Unkown」がティモシー・シャラメ主演で公開され、バエズとの関係も詳しく描かれています。













