沖田修一の監督・脚本による7作目の劇場用長編映画。
沖田修一は2006年の「このすばらしきせかい」以来、一貫して脚本も自ら書き起こす映画監督で、21世紀の邦画界では常に注目すべき映画作家の一人だと思います。常に日常的な何気ない風景の中から、大声で笑うわけではなく、心が嬉しくなるような「コメディ」を構築しています。
昭和49年、東京都豊島区の一角にある古い平屋に、94歳の画家の熊谷守一(山崎努)は妻の秀子(樹木希林)、姪の美恵(池谷のぶえ)と暮らしていました。守一は、毎日、身支度を整えると、秀子に「行ってきます」と挨拶をして出かけていくのです。途中、見慣れない小石に「どっから飛んできた?」と問いかけ、蟻の行列をじっと見つめ、生繫った植物や小動物を観察するのです。
これはすべて守一の家の30坪足らずの庭での出来事。守一は、この地に家を構えて30年間も外出せずに暮らしていたのです。ごくたまに家の敷地の外に出ても、ちょっと歩いただけで誰かと出会うと逃げ帰ってきます。守一が毎日出かけていくのは、庭のはじにある池。少しずつ自分で掘った深い穴の底にある水溜りのような池ですが、メダカが泳いでいるのです。
親しい人からはモリと呼ばれていた熊谷守一は、1880年生まれでシンプルな構図の中に大胆な色彩で(自宅の庭にある)自然物を描き続けた画家です。二度の褒章の機会を「人がもっと来たら困る」という理由で辞退し、60歳頃からは家から出ることなく、1977年に97歳で亡くなっています。絵画に興味が無くても、誰もがモリの作品をどこかで見たことがあることでしょう。
モリは二科会の早くからの会員であり、二科展へは毎回のように出品を続けていました。昭和天皇が二科展を訪れた際に、モリの作品を見て「これはどこのこどもが描いたものか」と尋ねたという有名なエピソードがあり、この映画もその場面から始まります。しかし、後に昭和天皇はモリの作品が大好きになられたらしい。
この映画は、そんなモリのある一日を描きます。モリの日常を撮影しているカメラマンの藤田武(加瀬亮)が、今日は新米の鹿島(吉村界人)を連れて訪れます。信州から看板を書いてもらいたくてやってきた朝比奈(光石研)は、旅館名ではなく「無一物」と書かれて困惑して帰っていきます。宮内省の役人(嶋田久作)は、電話で褒章の内示を伝えるものの断られて呆然とするのです。近所の人々(黒田大輔、きたろう)も特に用がないのに集まってくるのでした。
モリの家のすぐ横にマンション建築が始まり、現場監督(吹越満)と作業員の岩谷(青木崇高)がやってきて、美術大学生らが反対運動をしているのを何とかしてほしいと言ってきます。岩谷はモリが著名な画家であることを知っていたので、自分の息子の描いた絵を見せるのです。モリは「下手だ。でも下手はいい。上手は先が見えちまう」と評するのでした。
モリはマンションが建つと、日当たりは池のところだけになってしまうので、岩谷に池の穴を埋め戻すことを頼み、夜には建築作業員をにすき焼きを振舞うのでした。宴会の中、モリは庭に見たような人がいることに気がつきます。その人は変わった姿をしていて、「池が宇宙につながりました。一緒に行きましょう」とモリに言うのです。しかし、モリは「行かない。この庭でも私には広すぎる。行くと母ちゃんが疲れちゃうのが、一番困る」と言うのです。
池は無くなり、マンションも建ちましが、モリの暮らしは相変わらずでした。また訪れた藤田はマンションの屋上に上がってみます。見下ろすと、とても狭いけど大きなモリの宇宙が広がっていました。
人にはそれぞれ自分の世界があって、それは安心できる小宇宙ということ。そして、モリのいる場所はそんな庭の世界・・・であると同時に「秀子のいる世界」が大事だということ。沖田監督はモリの「奇妙」な生活に興味を持ち、ストーリーの大多数はフィクションであろうと思いますが、カメラマンの藤田のモデルである「獨楽- 熊谷守一の世界」を出版した藤森武氏にも取材されたのかもしれません。
主演の山崎努と樹木希林は、50年来の知り合いですがこの映画が初共演。樹木希林はこの映画を気に入っていて、「喋りやすい、喋過ぎない脚本で、無駄がない」と語っていたそうです。山崎努は「キツツキと雨」で大御所俳優として出演していましたが、その中で新人監督の小栗旬に「またやろう」というシーンがありました。沖田監督はそれを実現したかったのかもしれません。