2025年11月19日水曜日

ラ・フランス


ラ・フランスは西洋梨の代表的な品種ですが、当然、フランスではそうは呼ばない。

原産国フランスでは、クロード・ブランシェ(Claude Blanchet)さんが19世紀半ばに発見した品種ということで、発見者の名前を冠した呼び名が用いられます。

ところが、本国ではその後すたれてしまい、日本では山形・長野を中心に定着し世界最大の産地になりました。

今が食べ頃というわけですが、実際に収穫されるのは10月だったりします。

実は、収穫されてから、数週間の追熟によって、含まれるでんぷん質が糖分に変化するすることで、甘くトロリとした美味しさになります。

好きな方にはたまらない美味しさなんですが、難しいのは食べ頃の判定。

耳たぶくらいの柔らかさが目安と言われていますが、タイミングを逃すと腐らせてしまうので、毎日にらめっこしないといけませんね。


2025年11月18日火曜日

ふしぎ駄菓子屋 銭天堂 (2024)

廣嶋玲子のこども向けの小説が原作で、2020年にはアニメ化もされて高い人気が伺えます。実写化にあたっては、多くのアニメに携わってきた吉田玲子が脚本、「リング・シリーズ」などの日本のホラー映画の第一人者である中田秀夫が監督を務めました。主人公の銭天堂の紅子は初老のふくよかなイメージですが、演じる天海祐希は特殊メイクにより見事に変身しています。

どこからともなく現れる駄菓子屋、銭天堂。噂になっても、ごく限られた者しか店にたどり着けないらしい。駄菓子屋の主の紅子(天海祐希)は、店の来ることができる客を水晶玉を通して呼び寄せ、その客の希望を叶えられる不思議な駄菓子を売るのでした。小学校の教師をしている等々力小太郎(大橋和也)は、こどもたちの中に、急に何かがうまくなったりするのは、どうやらその駄菓子を食べたせいだと耳にします。

小太郎の大学の後輩の相田陽子(伊原六花)は、ファッション雑誌の編集部に配属され、自分のセンスの無さに落ち込んでしまいます。しかし、紅子に呼び寄せられ、食べると自分に似合うファッションが光って見える「おしゃれサブレ」を買うのです。しかし、もっと注目されたいという欲が膨れ上がり、なぞの駄菓子屋たたりめ堂のよどみ(上白石萌音)の誘いにのって「強欲あんこ」を口にしてしまうのです。

小太郎の妹のまどか(平澤宏々路)は、一緒に美術大学を目指している親友の如月百合子(伊礼姫奈)が急に絵が上手になり自分に冷たくなったことを悩んでいました。紅子はまどかに、心がきれいになる「虹色みずあめ」を売ります。実は、悪意をどんどん生みだすために、百合子もよどみの駄菓子を食べていたのでした。

う~ん、まあ、元は児童文学ですから・・・あまり、いろいろ言うことはないんですが・・・にしても、中田秀夫もよく監督のオファーを受けたものだと。天海祐希もしかり、上白石萌音もです。まぁ、本人たちが楽しんでいるなら、それはそれでよしとするしかない。ファンの方には怒られると思いますが、大橋和也くんの演技は・・・

あまり考えずに、多少楽しめればよいという、時間がある方がこども向けだと思って見るにはちょうど良いかもしれません。

2025年11月17日月曜日

夜明けのすべて (2024)


2024年の映画賞の多くを受賞した作品で、若手(?)の日本の映画監督の中で、注目すべき一人である三宅唱の監督作。原作は実写化作品がいくつかある瀬尾まいこの小説で、脚本は三宅と和田清人の共同脚本です。

この映画を理解する上で、2つの病気が重要な意味を持っています。一つは月経前症候群(PMS)で、生理の時期に体や精神の不調を生じるもので、軽いものは多くの女性が経験します。5%程度で日常生活に支障をきたすような、情緒不安定、イライラ、抑うつ、めまい、倦怠感、腹痛、頭痛などを起こしています。もう一つはパニック障害です。突然の激しい不安発作が繰り返し起こり、発作時には動悸、息切れ、めまいなどの身体症状が現れ、日常生活に大きな支障をきたします。

いずれの病気も、多くの時間は普通に社会生活を送っているので、周囲の人々には気がつかれないこともあり、発作時の苦しみはなかなか理解されにくいところがあります。主人公の一人、藤沢美沙(上白石萌音)は、発作が終わると攻撃的だった自分を嫌悪し、希望を持てない生活を送っているのです。もう一人の主人公である山添孝俊(松村北斗)も、電車に乗ることもできず自分の殻の中に閉じこもり生きる希望を失いつつありました。

大会社の中では居場所を見出せなかった美沙は、今ではプラネタリウムの玩具などを製造・販売する栗田金属で働いていました。社員は10名に満たない小さな会社でしたが、社員全員が家族のようにお互いを気遣うような環境でした。1か月前に大きな会社から転職してきた孝俊は、他の社員と交流することはなく黙々と仕事をするのです。

ある日、孝俊は美沙のイライラをぶつけられ驚きます。また、孝俊が社内で発作を起こしたことで、美沙は自分も使ったことがある薬を孝俊が服用していることに気がつきます。美沙に苦しい時はお互い何かできるかもと言われた孝俊は、自分の主治医にPMSの本を借りて勉強し、次に美沙が発作を起こしたときは、何とか落ち着かせようと協力するのでした。

小学校で毎年行っている移動式プラネタリウムのイベントを、今年は孝俊と美沙がメインで担当することになりました。二人は知識の整理だけの解説では面白味がないため、昔社長(光石研)の弟が担当していた時の、録音テープや資料を参考にして、より生き生きとした解説原稿を作ります。しかし、美沙は脳梗塞を起こした母の介護のため会社を辞めて、実家の近くに転職する決意をしていたのです。

映像的に特別に凝ったことはしていませんが、終始ゆったりとしたシーンをつなぎ合わせて、大変おちついた描写を心がけている作品です。音楽の使い方もシンプルで、ストーリーをまったく邪魔することなく、映像の中にしみ込んでいくような単調な音楽が心地よい。

一番良いのは脚本です。無駄な台詞は排除して、いちいち説明的な言葉はありません。見る者の想像力に頼る部分が多いのですが、俳優の演技や情景により伝えるべきことは伝わるような脚本だと感じました。

タイトルの意味は、プラネタリウムの解説の最後に美沙が説明する言葉にすべて込められています。美沙は「夜明け前が最も暗い時間です。そして朝が来れば、また夜が来る。喜びに満ちた日も、悲しみに沈んだ日も、地球が動き続ける限り必ず終わる。そして、新しい夜明けがやって来る」と、来場者のみならず自分にも向けて語るのです。

孝俊と美沙の間には、いわゆる恋愛感情はおそらくありません。孝俊は、男女の関係には助け合うというものもあると語っています。それは、同性同士であっても、上下関係の中でも、人と人の関りという点では共通のものだろうと思います。この映画には、悪意を持つ者は一人たりとも登場しません。すべての人に感じてもらいたい作品なのてす。

2025年11月16日日曜日

幸せカナコの殺し屋生活 (2025)


ウェブサイトで連載された、若林稔弥による無料の4コママンガが原作。そして、それを実写ドラマ化したのはネット通販サイトであるDMM.comが運営する動画部門のDMM TVです。出展からして、実にネット社会だからこその新しさがあります。

通常の地上波テレビは、スポンサーが出資して番組が作られ、視聴者は無料で番組を見れますが、そのかわりスポンサーによるCMを合わせて見ないといけない。番組制作にはスポンサーの意向が反映され、誰でも見れるため時代に合った制約を強く受けます。

一方、衛星放送チャンネルやネット配信のよる番組は、そのほとんどが「サブスク」で提供されます。視聴者は見たいと思って同意した上で視聴するので、映画と同等に暴力的、あるいは性的な倫理的に過激な描写も可能で、作り手はかなり自由に番組を作れるので、いろいろな意味で面白くなるのは必然と言えます。

このようなメディア構造の変化は、特にネットに依存する度合いが強い若者中心に受け入れられ、もはや地上波テレビ放送は「絶滅危惧種」の如くで、関係者は先細りの将来に大きな危機感を持っていることだと思います。ただし、サブスク番組も視聴者を獲得するため、より過激化する心配もないわけではありません。

事務所移籍トラブルにより、芸名である「能年玲奈」を本名であるにも関わらず使えなくなった"のん"は、地上波テレビ復活よりも映画やサブスク系ドラマなどに活路を開いたという意味では、現在のメディア構造をもっともうまく利用した出演者と言えるかもしれません。

5年ぶりとなるメディア露出を果たしたのは、2019年の自ら監督もした「おちをつけなんせ」で、これはYouTubeを利用した自主制作でした。2025年はNetflix映画「新幹線大爆破」や本作で存在感を見せつけ、この時期にABEMAで配信中の「MISS KING」でも大評判になっています。

前置きが長くなりましたが、本作は痛快アクション・コメディで、1話約30分の全6話、実質的には2時間ちょっとの映画サイズです。監督はこのジャンルの作品が多い英勉。

ブラック企業に見切りをつけたカナコ(のん)が、就職面接を受けに行ったのは殺し屋でした。しかし、社長(渡部篤郎)の説明でホワイトな職場であることを理解したカナコは採用され、早速殺し屋としての実践訓練を始めることになります。指導するのは先輩の桜井(藤ヶ谷太輔)ですが、社長も桜井もカナコの殺し屋としての才能を認めざるを得ない。

まずは壮絶なパワハラをカナコにしていた元上司を暗殺したのですが、怨恨の線でカナコの元にも警察が事情を聞きに来ます。刑事の竹原(矢本悠馬)はカナコに一目惚れし、バディの大森(山崎紘菜)もあきれてしまう。しかし、カナコは殺し屋の仕事に今までにはなかった充実感を感じるようになるのです・・・

というような、荒唐無稽の話ですが、とにかくテンポが良い。アクションもそこそこかっこいい。社会の落ちこぼれになったカナコが再生していくところも、共感を呼びます。頻繁に出てくるギャグもわざとらしさがなく、ストーリー全体をポップに仕上げることに溶け込んでいます。機会があれば、是非視聴してみることをおすすめできるドラマだと思いました。

2025年11月15日土曜日

ランサムウェア


ランサムウェアとは、コンピュータ・ウィルスの一種で、感染すると保存されているデータを暗号化して使用できない状態にした上で、そのデータを復旧させるための金銭などを要求する不正プログラムのこと。

近年、新たに登場したわけではなく、コンピュータおよびインターネットの黎明期からすでに存在していたわけで、1989年の「トロイの木馬」として有名になったプログラムが最初と考えられています。

20世紀は、一つ一つのコンピュータは独立した仕事をする場合がほとんどでしたから、さまざまなコンピュータ・ウィルスが登場しても、被害があっても個々のコンピュータの問題であることがほとんどでした。

しかし、今では組織内のコンピュータのみならず、世界中の家庭のものですらインターネットを介してつながる時代になり、問題が起こるとその影響は多岐にわたって拡大します。

現在、日本の企業でランサムウェアの攻撃により著しく業務に支障をきたしているのがアサヒ・ビールとアスクルです。アサヒ・ビールは、アナログな手段により、受注・出荷を少しずつ再開していますが、いまだに解決には至っていません。

アスクルは、どこの企業でも日常的に使われる消耗品全般を扱い、注文すると基本的に「明日、来る」ので、多くの会社が利用しているもので、自分のクリニックでも医薬品などを除くと、主要注文先として開院以来利用しています。

注文するとすぐに届くということは、自社で在庫をたくさん抱える必要が無いことが大きなメリットなんですが、ひとたびアスクルがストップしてしまうと、証文品はすぐさま枯渇してしまうことになります。あらためてアスクルの有難味がよくわかるというものですが、同時に代替えとなる入手手段を考えないといけない。

トイレット・ペーパー、ペーパー・タオル、ティッシュ・ペーパーなどは、近くのホーム・センターに買いに行けばいいのですが、持ち帰るのはかさばって大変です。Amazonなどの別の通販を利用することもできますが、配達時間などが不定なので頼みにくい面があったりします。

アスクルを日常的に利用する酒屋さんが、一番困っているのかもしれませんが、とにかくランサムウェアの問題は他人事ではありません。コンピュータの発展は、便利になると同時に不便になるところも増えていると認識しないといけないということ。薬でいえば、主作用と副作用は表裏一体と同じです。

2025年11月14日金曜日

さかなのこ (2022)

 


宮澤正之による自叙伝「さかなクンの一魚一会 〜まいにち夢中な人生!〜」が原作。宮澤正之というと「 誰??」となるんですが、「さかなクン」と言えば知らない人はいない。

さかなクン、本名宮澤正之は、いつでもハコフグの帽子をかぶりハイテンションで魚に関する様々な解説をすることで人気者になりました。一方で、その魚類に関する博学ぶりは専門家をも凌駕する場合があり、内閣総理大臣賞(2012年)を受賞し、現在は東京海洋大学の客員教授を務めるほどになりました。

監督・脚本は沖田修一。さかなクンは男性ですが、監督は中性的な魅力も感じる女優ののん(能年玲奈)を起用し、ミー坊と呼ばれた少年が「さかなクン」になるまでを沖田流のフィクションの味付けを加えて描いています。

小学生のミー坊(西村瑞季)は、魚が大好き過ぎてクラスの中でも浮いていました。それでも、
クラスメートのヒヨ(中須翔真)、モモコ(増田光桜)とは仲良しでした。母親のミチコ(井川遥)は、そんなミー坊を否定することなく、応援するのでした。

ある日、ミー坊はギョギョおじさん(さかなクン)と出会います。魚に詳しいギョギョおじさんは、ミー坊にいろいろな魚の話をしてくれたのですが、夢中にになって夜遅くなってしまい警察がやってきて、ギョギョおじさんは連行されてしまうのです。去り際にギョギョおじさんは、かぶっていたハコフグの帽子をミー坊に渡すのでした。

高校生になったミー坊(のん)は、学校で飼育するカブトガニの孵化に成功して新聞に紹介されました。原付暴走族の総長(磯村勇斗)との仲良くなり、対抗するグループの籾山(岡山天音)とも親しくなりました。しかし、ミー坊の学校の成績はいまいちでした。それでも三者面談で、母親は成績が悪くてもかまわないと言うのです。

水族館に就職したミー坊は、魚への愛ばかりで仕事はからっきし。寿司屋に転職したものの、魚好きのミー坊にはどうも向いていない。高級歯科医院からアクアリウムの設計を頼まれても、マニアック過ぎる魚ばかりをチョイスして失敗します。

熱帯魚店でやっとやっと落ち着いたミー坊の元に、モモコ(夏帆)が子連れで転がり込んできました。しかしモモコを同居させるには部屋に置いていたたくさんの水槽が邪魔だったので、ミー坊は水槽を整理するのです。それを知ったモモコは黙って出ていきました。

ミー坊の魚の絵が上手なことを知っていた総長は、寿司店を開こうとしていた籾山のもとに連れていき、ミー坊に店の外壁・内壁にたくさんの魚を絵を描かせます。これが評判になり、ミー坊の元には魚のイラストの仕事が舞い込むようになりました。それを知ったテレビ局で働くヒヨは、ミー坊をテレビで紹介することにしました。緊張するミー坊は、ギョギョおじさんから受け継いだハコフグ帽をかぶり、ついに「さかなクン」になったのでした。

さかなクンにまつわる本当の話も混ざっていますが、大部分はフィクション。それでも、実にうまく話が作られていて、さかなクンならこうやって誕生したのかもしれないと思わせてくれます。この辺りは脚本の妙味というところなんで、映画としては良く出来ているところです。

ただし、沖田監督作品としては・・・ちょっと原作に振り回された感じで、ある意味「普通」の映画です。原作がフィクションではなく、かつ原作者が存命中ということで、皆が知っているさかなクンのキャラクターに寄せ過ぎた感は否めません。その結果、沖田カラーは彩度を失ってしまったのかもしれません。

事務所移籍トラブルから露出が激減したのん(能年玲奈)にとっては、この年は自ら監督も行った「Ribbon」に続いての女優としての実力を再確認させることにつながっています。男性とも女性とも、あるいはトランスジェンダーでもない何にも染まらない存在感を、見事に演じています。

2025年11月13日木曜日

子供はわかってあげない (2021)

沖田修一の監督作品としては、劇場用第9作目になり、当然脚本も自ら担当しています。予定では2020年公開予定でしたが、コロナ渦の影響で1年遅れになっています。本来は、「おらおらでひとりいぐも」で老人、本作で若者を扱い、ほぼ同時公開を考えていたようです。とはいえ、両作品にはそれほど共通点はありません。

原作は田島列島で、沖田作品としては初めてマンガ作品が取り上げられました。冒頭、「魔法左官少女バッファローKOTEKO」というオリジナル・アニメが登場して、「あれ? 見るものを間違えた」と思ってしまうかもしれません。

高校2年生で、水泳とアニメ一筋の生活を送る朔田美波(上白石萌歌)は4人家族。父の清(古舘寛治)とはアニメ趣味も同じで仲が良く、母の由起(斉藤由貴)も明るく理解があります。大好きなアニメが同じだったことから、美波は同級生の門司昭平(細田佳央太)と仲良くなります。

美波は、偶然に昭平の家にあったお札が、高校生になった時差出人不明で自分宛てに送られてきたものと同じであることに気がつきました。書道家である昭平の父が書いたもので、新興宗教の「光の函」のお札であることを知った美波は、昭平の兄で探偵っぽいことをしている明大(千葉雄大)を紹介してもらいます。

実は母は子連れの再婚で、美波は本当の父親との記憶はありませんでした。お札は父親から送られてきたものかもしれないと考えていた美波は、「藁谷」という苗字だけを頼りに父親の捜索を頼むのでした。明大は教団の線から教祖である藁谷友充(豊川悦司)を割り出し、今は教祖を辞めて海辺の町で整骨院の手伝いをしていることを調べ上げます。

美波は水泳部の夏合宿の期間に、両親には黙って友充を訪ねることにしました。整骨院は友充の実家で、美波が会いに来たことを歓迎します。二人は湿っぽい話はせず、美波は友充が可哀そうだからと夏合宿への合流を先延ばしにして留まることにしました。

友充は自分には自然に人の心を読む能力が身についていたので教祖に祭り上げられたが、それを教えても誰もできなかったため教壇を抜けたと語ります。さらに友充は、姪の小学生の仁子が泳げないので水泳を教えてあげるよう美波に頼みました。仁子は少しずつ泳ぎが上達しているうちに、夏合宿期間が終わろうとしていました。美波がまったく合宿に現れないことを知った昭平は、何かトラブルになっているのではないかと心配し、美波の行き先に急ぐのでした。

昭平は自宅で小学生相手の書道教室で先生をしていて、それを見た美波は感心するのですが、昭平は「教えられたものを教えるのは簡単だよ」と返していました。美波は水泳を人に教えたことはなかったのですが、仁子に教えることを頼まれたときにその言葉を思い返します。

一方、友充の「特殊能力」は、誰かに教えてもらったものではないので、美波が教えてもらってもまったくどうにもならないのです。この映画のポイントはそこのところで、人は様々な事柄を教えてもらい成長し、そしてそれをまた誰かに教えていくことで継承されていくのだということ。

現代っ子なのか、記憶にない父親と再会しての、美波の反応はドライな印象を受けます。今になってヒントになるお札を送ってきた理由は尋ねますが、何故母と離婚したのか尋ねないし、10年以上の空白があるにしては打ち解けすぎじゃないかと感じました。もっとも、そこを突っ込んでいくとお涙頂戴的な悲壮感とかも出てきてしまい、沖田カラーとは異質の展開に行ってしまいそうです。

むしろ、過去は横に置いて、前向きに父親との時間を取り戻すことに集中したということ。同時に、こどもは急速に距離を縮めることができるのに対して、大人はこどもの好きなものをそろえたりしてそれなりに四苦八苦している。「親の心子知らず」的なところが、タイトルの由来なのかもしれません。

今回も、基本ほのぼのとした「ハート・ウォーミング」なストーリーを目指しているので、いつものカットを減らして長回しでゆったりとした間を活かした「らしさ」は十二分に堪能できます。そういう意味では一つのシーンが長いので、俳優陣は大変だったろうと思いますが、若手陣はなかなか頑張ったと言えそうです。

2025年11月12日水曜日

おらおらでひとりいぐも (2020)

若竹佐知子の63歳でのデヴュー小説を原作として、沖田修一が監督・脚本した作品。

日高桃子(田中裕子)は75歳、数年前に夫に先立たれ、一男一女を授かりましたがそれぞれ独立して、今では一人住まいの身の上です。趣味と言えば、図書館で借りてくる本を参考にして書きためた「地球46億年の記憶ノート」を作ることくらい。

桃子の目の前には、桃子の心を代弁するさびしさ1(濱田岳)、さびしさ2(青木崇高)、さびしさ3(宮藤官九郎)がしょっちゅう現れます。朝になると、どうせ(六角精児)が「どうせ起きても昨日と同じでやることはないよ」囁いている。確かに、起きても図書館と病院に通うだけの生活なのです。

桃子は岩手県の出身で、東京オリンピックの年に、親が決めた縁談が嫌で「新しい女」になると東京に飛び出してきたのです。若かった桃子(蒼井優)は、住み込みの食堂の客だった同郷の周造(東出昌大)と知り合い結婚したのです。幸せな結婚生活でしたが、古い習慣に縛られ新しい女のイメージとはほど遠い生活でした。

昔の自分を思い出し、様々な妄想を繰り返しているうちに、むしろ自分が一番輝いているのは周造が死んでからの勝手気ままな生活をしている今なのかもしれないと思うようになります。そして。「おらおらでひとりいぐも」と言うと、今を受け入れるようになるのでした。

タイトルは東北弁で、「私は私で、一人で行きます」という意味。宮沢賢治の「永訣の朝」の中の死の床にいる最愛の妹に対する決別の言葉です。ここでは亡くなった夫に向けた桃子の気持ちの整理を意味しているようです。

原作にならって、現実では標準語、妄想の中では東北弁が使われていて、一部東北弁については聞き取りにくいところがあります。東京に出てきて標準語で通してきたはずの桃子でしたが、やはり標準語を使う自分に後ろめたさを感じていたわけで、出自を完全に捨て去ることはできないということ(46億年前の地球に重なります)。

主たるテーマは「老いと孤独」ということだと思うのですが、沖田作品の特徴である無理しないユーモアのおかげで悲壮感はありません。むしろ、若かったころの桃子の「この幸せが終わることはないと思っていた」という言葉に、「周造が死んだことで、独りで生きてみたいと思っていたことが叶った」と今の桃子が返答するのは、ある意味真実なのかなと思ってしまいました。

田中裕子はこの映画の時は65歳くらいですが、シーンによって孤独な老女とお茶目な少女の両方を演じ分けていてさすがです。もともと地味な印象がある沖田作品のなかでは、群を抜いて地味な感じですが、沖田監督らしさを随所に感じられるほのぼのとした仕上がりになっています。

2025年11月11日火曜日

モリのいる場所 (2018)

沖田修一の監督・脚本による7作目の劇場用長編映画。

沖田修一は2006年の「このすばらしきせかい」以来、一貫して脚本も自ら書き起こす映画監督で、21世紀の邦画界では常に注目すべき映画作家の一人だと思います。常に日常的な何気ない風景の中から、大声で笑うわけではなく、心が嬉しくなるような「コメディ」を構築しています。

昭和49年、東京都豊島区の一角にある古い平屋に、94歳の画家の熊谷守一(山崎努)は妻の秀子(樹木希林)、姪の美恵(池谷のぶえ)と暮らしていました。守一は、毎日、身支度を整えると、秀子に「行ってきます」と挨拶をして出かけていくのです。途中、見慣れない小石に「どっから飛んできた?」と問いかけ、蟻の行列をじっと見つめ、生繫った植物や小動物を観察するのです。

これはすべて守一の家の30坪足らずの庭での出来事。守一は、この地に家を構えて30年間も外出せずに暮らしていたのです。ごくたまに家の敷地の外に出ても、ちょっと歩いただけで誰かと出会うと逃げ帰ってきます。守一が毎日出かけていくのは、庭のはじにある池。少しずつ自分で掘った深い穴の底にある水溜りのような池ですが、メダカが泳いでいるのです。

親しい人からはモリと呼ばれていた熊谷守一は、1880年生まれでシンプルな構図の中に大胆な色彩で(自宅の庭にある)自然物を描き続けた画家です。二度の褒章の機会を「人がもっと来たら困る」という理由で辞退し、60歳頃からは家から出ることなく、1977年に97歳で亡くなっています。絵画に興味が無くても、誰もがモリの作品をどこかで見たことがあることでしょう。

モリは二科会の早くからの会員であり、二科展へは毎回のように出品を続けていました。昭和天皇が二科展を訪れた際に、モリの作品を見て「これはどこのこどもが描いたものか」と尋ねたという有名なエピソードがあり、この映画もその場面から始まります。しかし、後に昭和天皇はモリの作品が大好きになられたらしい。

この映画は、そんなモリのある一日を描きます。モリの日常を撮影しているカメラマンの藤田武(加瀬亮)が、今日は新米の鹿島(吉村界人)を連れて訪れます。信州から看板を書いてもらいたくてやってきた朝比奈(光石研)は、旅館名ではなく「無一物」と書かれて困惑して帰っていきます。宮内省の役人(嶋田久作)は、電話で褒章の内示を伝えるものの断られて呆然とするのです。近所の人々(黒田大輔、きたろう)も特に用がないのに集まってくるのでした。

モリの家のすぐ横にマンション建築が始まり、現場監督(吹越満)と作業員の岩谷(青木崇高)がやってきて、美術大学生らが反対運動をしているのを何とかしてほしいと言ってきます。岩谷はモリが著名な画家であることを知っていたので、自分の息子の描いた絵を見せるのです。モリは「下手だ。でも下手はいい。上手は先が見えちまう」と評するのでした。

モリはマンションが建つと、日当たりは池のところだけになってしまうので、岩谷に池の穴を埋め戻すことを頼み、夜には建築作業員をにすき焼きを振舞うのでした。宴会の中、モリは庭に見たような人がいることに気がつきます。その人は変わった姿をしていて、「池が宇宙につながりました。一緒に行きましょう」とモリに言うのです。しかし、モリは「行かない。この庭でも私には広すぎる。行くと母ちゃんが疲れちゃうのが、一番困る」と言うのです。

池は無くなり、マンションも建ちましが、モリの暮らしは相変わらずでした。また訪れた藤田はマンションの屋上に上がってみます。見下ろすと、とても狭いけど大きなモリの宇宙が広がっていました。

人にはそれぞれ自分の世界があって、それは安心できる小宇宙ということ。そして、モリのいる場所はそんな庭の世界・・・であると同時に「秀子のいる世界」が大事だということ。沖田監督はモリの「奇妙」な生活に興味を持ち、ストーリーの大多数はフィクションであろうと思いますが、カメラマンの藤田のモデルである「獨楽- 熊谷守一の世界」を出版した藤森武氏にも取材されたのかもしれません。

主演の山崎努と樹木希林は、50年来の知り合いですがこの映画が初共演。樹木希林はこの映画を気に入っていて、「喋りやすい、喋過ぎない脚本で、無駄がない」と語っていたそうです。山崎努は「キツツキと雨」で大御所俳優として出演していましたが、その中で新人監督の小栗旬に「またやろう」というシーンがありました。沖田監督はそれを実現したかったのかもしれません。

2025年11月10日月曜日

海老クリーム・パスタ


有頭海老を見つけたらパエリア・・・じゃなくて、海老クリームのパスタがおすすめです。

殻付きのまま有頭海老を、ちよと多めのオリーブオイルで炒めましょう。両面をしっかり焼いたら、トングなどでギュっと押しつぶして、味噌を絞り出します。そしたら、一度フライパンから取り出しておきます。海老のエキスがたっぷり出た海老オイルになります。

フライパンにみじん切りにしたタマネギ、2人前で1/2個分を入れて炒めます。ちょっとだけニンニク入れるとさらに美味しい。

この辺りでパスタを茹ではじめましょう。通常1%の塩を入れますが、この塩で全体の味が決まります。確実に塩茹してください。それと茹で時間は、指定された時間より2分ほど短くします。

さて、フライパンに戻りましょう。トマト缶1/3(130ml程度)、生クリーム100mlを追加します。キノコとか入れたかったら、このタイミングでお願いします。

パスタが茹で上がったら、フライパンに移しましょう。少し水を加えたほうがやりやすいです。フライパンの中で数分間パスタを煮て、味を吸わせてパスタを完成させます。

あ~至福の美味しさ。申し訳ありませんが、そこらの店よりうまいぞ~

2025年11月9日日曜日

野球場の話


今はサッカー人気が高いので、こどもたちの夢はJリーガーなりたいというのがダントツで多い。昭和のこどもは、特に自分に関しては当然のように野球少年であり、将来野球選手という夢をもつこどもがほとんどでした。

それというのも、王・長嶋全盛期、読売ジャイアンツが連続V9を達成していた頃ですから、娯楽も今ほど多くなかったので、こどもだけでなく大人も野球が大好き。

東京にいるとジャイアンツの試合は全試合テレビ・ラジオ中継がありましたから、ジャイアンツの選手の名前は憶えても、他のチームの選手はわからない。必然的に、ジャイアンツのファンとアンチ・ジャイアンツに二分されるということになります。

後楽園球場のチケットを入手するのは大変だったらしく、ほとんど観戦に行ったことはありません。ただし、神宮球場は当日券でも楽勝に入場できたので、生の野球観戦といえば、ほぼサンケイ・アトムズ対読売ジャイアンツに限られるということになります。

サンケイ・アトムズはもともとは国鉄スワローズだったわけで、後に巨人に移籍した大投手の金田正一がいたチーム。東京オリンピックのあとに産経グループに売却されましたが、大坂万博の頃にはヤクルト・アトムズに変わっています。1974年にヤクルト・スワローズとなり、2006年から現行の東京ヤクルト・スワローズを名乗っています。

自分が知っている頃のスワローズ(あるいはアトムズ)は、リーグで最弱と言ってもかまわないくらい弱いチームで、神宮球場の外野は閑古鳥なんてものじゃない。その頃は外野スタンドは芝生だったので、好きな場所でゴロっと横になって見物できたし、あきると友人とキャッチボールもできました。

現在、横浜DeNAベイスターズと名乗っているのは、自分がこども時は大洋ホエールズでした。当時は川崎球場がホームでしたが、1978年に横浜に移転し横浜大洋ホエールズとなり、1993年から横浜ベイスターズ、2012年にDeNAが球団名に加わりました。

川崎球場は一度だけ、ホエールズ対ジャイアンツの試合を見に行ったことがある。たぶんJR川崎駅から徒歩で行ったのだと思いますが、何か場末の繁華街みたいなところを通り抜けるので、こども心にはずいぶんと怖い場所にあるという記憶だけが残っています。

セントラル・リーグには、他に甲子園球場の阪神タイガース、広島球場の広島東洋カープ、名古屋球場の中日ドラゴンズがありますが、いずれも球団名はほぼ変更されていません。ただ、地方で野球観戦というのはしたことがありません。

ただ唯一、1974年、確か京都への修学旅行の帰りに、新幹線の中から名古屋球場の灯りを一瞬見ました。実はその日は、ペナントレースの最終戦で、ドラゴンズ対ジャイアンツの試合が行われている時だったのです。ジャイアンツはこの試合に敗北してV10を逃し、鉄人・川上哲治監督は勇退したわけです。

2025年11月8日土曜日

久しぶりにカルボナーラ


パスタのメニューの中で、カルボナーラはトップクラスの人気を誇ります。

もちろん自分も嫌いではないのですが、かなりカロリーが高めになってしまうので、やや避け気味になっいます。でも、うまく出来た時の満足感はけっこうあるので、たまに作りたくなります。

ポイントの一つは、味の決め手の塩は、パスタを茹でる時にしか使わない。そして用意したソースを絡める時の過熱の仕方だと思います。

通常パスタを茹でる場合には、1%の塩を入れます。つまり1Lの水に対して塩は10g。これだけでは味が薄いのでないかと心配しそうですが、ベーコン(またはパンチェッタ)も使うので、そこから出る塩味があるのでまったく心配はありません。

二人前くらいで、まずみじん切りのタマネギ中1/2個を炒めます。これは焦げない程度。そして好きなだけベーコンを入れて火を通します。既定の時間より1~2分早めに茹で上げたパスタをフライパンに投入したら、少しだけ茹でるのに使った湯を入れてパスタに味を吸わせていきます。

さてソースは先に用意しておくのですが、使うのは生クリーム200ml、生卵の黄身1個分、パルメザンチーズ(いわゆる粉チーズ)適量、そして粗挽き黒コショウです。

チーズをたくさん入れたくなりますが、入れすぎるとソースが重くなりますので注意が必要。このあたりのバランスには個人の好みもあるので、何度か自分で試してみるしかないかもしれません。

パスタがほどほどに煮汁を吸ったら、あとはソースを混ぜるだけなんですが、火をつけたままだと卵黄がかたまり過ぎて失敗します。ゆっくりじっくり、そして冷めないように火を入れるのが大事。

プロは湯煎をしたりしますが、家庭ではなかなか大変。そこで、超弱火にしてソースをフライパンに投入する方式がおすすめです。ゆっくり混ぜながら1~2分程度加熱すると、いい感じに仕上がります。

皿に盛ったら、黒コショウ追加、パセリを散らせば完成。何度が作って、ほぼパーフェクトと威張れる自己満足満点のカルボナーラが出来上がりました。

2025年11月7日金曜日

モヒカン故郷に帰る (2016)

1951年、日本初のカラー映画として公開されたのが木下惠介監督、高峰秀子主演の「カルメン故郷に帰る」でした。東京のストリッパーが錦を飾るつもりで故郷に帰って騒動になるというストーリーですが、タイトルからしてモヒカンはカルメンに対するオマージュであることは間違いない。

監督・脚本は沖田修二で、広島県呉市の瀬戸内海の小島で撮影されました。島の美しい風景と暮らす人々の素朴な心情をはさみながら、しばらくぶりに故郷に帰って来た長男と父親の関係をユーモラスに描くハートフル・コメディです。

東京でデスメタルバンドのボーカルをしていてモヒカン頭がトレードマークの田村永吉(松田龍平)は、妊娠した婚約者の会沢由佳(前田敦子)を紹介するために、故郷の瀬戸内海の戸鼻島に帰ってきました。

永吉の父親である田村治(柄本明)は、若い頃から矢沢永吉の大ファンで、ずっと面倒を見ている中学の10人しかいない吹奏楽部には矢沢の「アイ・ラブ・ユー、OK」を演奏させていました。母親の春子(もたいまさこ)は広島カープの大ファンで、弟の浩二(千葉雄大)も定職についていませんでした。

モヒカン頭は気に入らないものの、治はとりあえず長男の結婚祝いの宴会を開きます。しかし、その夜治は倒れ、肺がんの末期であることが判明するのでした。永吉は家業の酒屋を手伝い、由佳も島に馴染みましたが、治も春子も二人に東京に帰るように勧めるのでした。一度は連絡船に乗って島を離れたものの、二人は宮島観光をしただけで戻ってきます。

治の病状は悪化していましたが、痛いのは嫌だからと大きな病院に行くことはしません。永吉は、治の思い出のピザを取り寄せたり、吹奏楽部の連中にノリノリの矢沢永吉を演奏させたり、矢沢の扮装で治のベッドの横に立ち治を喜ばせたりします。そして、治の最後の願いで永吉と由佳は結婚式をあげ、その晴れ姿を見せることにするのでした。

父親が死の病に侵され、しばらく父との対話か無かった息子が父を助けるために奔走するみたいなベタな展開はありません。登場する人々は、良いことも悪いこともそのまま受け入れて、特に頑張るわけでもなく、それでもやさしく見守るのです。

モヒカン頭で変わり果てた息子はともかく、初対面の息子の彼女(少なくとも両家の子女ではない)に対してすら、そのまま受け入れることができるのはなかなかできるものではありません。でも、それがまったく普通のことに思えるのは作品の持つおおらかな雰囲気の賜物と言えそうです。

沖田監督作品としては、ストーリーがわかりやすく作られているように思いますが、死に向き合いつつも、日常的な自然に発生するユーモアをうまく挟み込んでいるところは、この監督らしさだと思います。同じキャストで、続編なんかも見たいものだと思いました。

2025年11月6日木曜日

滝を見にいく (2014)

沖田修一は、2006年に映画監督デヴューしましたが、2009年の長編2作目「南極料理人」で一躍知られるようになりました。一貫して、脚本も手掛けており、原作有る無しに関わらず、映像作家として独自の世界を構築してきました。

ほのぼのとした雰囲気の中で、自然に笑いがこみ上げてくるような癒し系のような作品が多いのですが、この作品は特にその傾向が強い。

ストーリーはいたって簡単です。紅葉の山の中で滝を見学するツアーに参加した7人のおばちゃんが、素人ガイド(黒田大輔)のせいで迷子になり、なんとなく協力して一晩野宿し、本来の目的だった滝を見ることができた・・・という感じです。

おばちゃんたちは、ほとんど知らない女優さんばかりですし、実際素人も混ざっているらしい。知られた人がでてこないので、なおさらただのおばちゃんに見えるというのがポイントです。

それぞれが、一般に「おばちゃん」と呼ばれる人の特徴を備えていて、最初のうちはお互いにその「おばちゃん」らしさが鼻につく。ところが、遭難したとなると反目している場合じゃないことが少しずつわかってきて、それぞれの持ち味を生かした協力体制かできてきます。

それはもう「おばちゃん」というより、危機的状況を逆手にとって楽しむ少女のような感じになっていきます。何とか帰り道の目鼻がついたところで、まだ滝を見ていないことに気がついた7人は、とにかく滝だけは見て帰ろうと再び戻っていくのです。

かなりゆったりとした流れの映像で、劇中音楽もかなり控えめで、たまに聞こえるのはほとんどゆったりとしたクラシック音楽なので、緊張感はかなり少な目です。

そんなのんびりとした時間を過ごさせてくれる佳作として、休日の午後にゴロっとなってみるのに丁度良い作品です。