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2018年1月20日土曜日

続日本紀 (3) 平城京に渦巻く謀略


元正天皇の世は、仏教が勢いを増した時代でした。これは、一つには数年間続く水害・干害により、飢饉が広がっていたとも関係あるかもしれません。さらに頭が痛いことに、九州の隼人、東北の蝦夷らが朝廷に抵抗し反乱を起こします。隼人の鎮圧に向かった将軍は大伴旅人で、ちなみにその子が大伴家持です。

長屋王は、藤原不比等死後、実質的な政権運営を担当していましたが、724年に元正天皇が退位し、首皇子が24歳で皇位を継ぐことになると、状況は一変します。ちなみに元正退位のきっかけは、またもや亀。今度は白い亀が見つかったことです。

首皇子は第45代聖武天皇となり、3年後に男子の基王が誕生します。すると生後一カ月であわただしく皇太子としました。皇位継承権を持つ長屋王の一族へ牽制のために、藤原四家からの意向が強く反映されたものと思われます。ところが、1歳を目前に基王が急死してしまいました。

これは、長屋王が呪い殺したという噂が広がります。そして729年、さらに密かに妖術を用いて国家転覆を狙っているという密告があり、自宅を囲まれ詰問された長屋王は、妃の吉備内親王、子の膳夫王らと共に自殺に追い込まれてしまいました。これを「長屋王の変」と呼んでいます。

事件が収束して、またまた亀です。今度は背に「天王貴平知百年(天皇は貴く平和に百年を知ろしめす)」と書かれていたそうで、これをきっかけに元号を奈良時代の代名詞ともいえる「天平」と改めました。

長屋王を排除することに成功し、藤原四家は順調に力を増していきます。しかし、その数年後に九州から始まった天然痘の流行は平城京にも拡大してきました。737年4月から8月にかけて、藤原四家が全員相次いで天然痘により亡くなり、長屋王のたたりと噂されました。南家は藤原仲麻呂、式家は藤原広嗣が継ぎ、さらに藤原の血統が入る阿倍内親王が皇太子となりました。

さて、そこでやりすぎちゃったのが藤原広嗣です。もともと直情径行型の切れやすい性格らしく、父の宇合からもうとまれていたらしい。その性格から、738年に大宰府に飛ばされましたが、740年に「僧の玄昉と吉備真備が天地災難の根源なので排除すべき」という意見を送り付けてきます。

玄昉は聖武天皇の信が厚くちょっと威張り気味の坊さんで、吉備真備は遣唐使として中国から多くの書物を持ち帰り朝廷の知恵袋になっていた人物。右大臣だった皇親派の橘諸兄は、藤原氏に対抗してこの二人の後ろ盾になっていました。

業を煮やした広嗣は、急場拵えの軍を引き連れ挙兵してしまいます。聖武天皇は何を恐れたのか、伊勢へ避難してしまいます。しかし、広嗣軍の組織力は皆無に等しく、官軍に情報がダダ洩れで、簡単に捕らえられ処刑されました。

事件が決着したのに聖武天皇は平城京に戻らず、数か月の間、まるで壬申の乱の時の天武天皇の行程をなぞるように行幸を続けました。年末に平城京に近い恭仁の地(京都府木津川市)に戻ってくると、いきなり恭仁に遷都を行います。藤原氏色の強い平城京を捨て、皇親勢力を強化するために橘諸兄が計画したものと言われています。

聖武天皇は強引な恭仁京遷都からわずか4年で、さらに難波京(大阪府大阪市)に宮を遷します。この年に天皇の残された唯一の皇子だった安積親王が、原因不明の脚の病により17歳で急死し、またもや藤原氏の陰謀が囁かれました。

天皇は、主だった臣下を難波に残し、自分は紫香楽宮(滋賀県甲賀市信楽)に移動し、またもや事実上の遷都を行います。しかし、紫香楽宮近辺の山火事(放火?)や地震被害を受けて、最終的に翌745年、平城京に還都したのです。

この6年間の相次ぐ遷都は、連れまわされた元正太上天皇はだいぶおかんむりだったらしい。もともとは聖武天皇が藤原広嗣が攻めてくるのを怖がったからかもしれませんが、とにかく世情が安定しないのは自分の不徳として悩んだ末とも言われています。明解な理由は示されていませんが、聖武天皇はけっこう小心者で何かとくよくよするタイプの性格だったのかもしれません。

いずれにしても、朝廷の財政は困窮し、貴族たちは天皇と皇親派と藤原氏との間のパワーバランスを読み右往左往させられ、民衆も相当疲弊し潜在的な不満がかなり高まったことが想像できます。平城京に戻ったことで、本拠にしていた藤原仲麻呂、その妹である光明皇后の力は急速に増大したことは街がありませんでした。