2018年1月2日火曜日

日本書紀 (8) 壬申の乱


茜指す 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る
あかねさす むらさきのゆき しめのゆき のもりはみずや きみがそでふる

紫の匂へる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに 我恋ひめやも
むらさきの におへるいもを にくくあらば ひとづまゆえに わがこいひめやも

突然ですが、万葉集です。古事記・日本書紀にも、たくさんの歌謡が登場していて、時には本文で伝えきれない、あるいは書くわけにはいかない微妙な心情を表現していたりするので、なかなかあなどれない。万葉集にも、歴史の傍証となりうる内容がかなりあるらしく、古代史を紐解く上では、重要な文献の一つという扱いです。

上は、万葉歌人として特に有名な額田王が詠んだもの。額田王といっても女性ですし、しかも大海人皇子の奥さんとだというから興味が湧いてきます。でもって、あくまでも噂話の域を脱しませんが、額田王を巡って天智天皇と弟の大海人皇子は三角関係だったかもという話しがあります。

天智天皇が、横恋慕して大海人皇子に有無を言わさず、自分の妃に取り上げたということらしい。大海人皇子は、天智天皇の冷酷に政敵を亡き者にしてきた手腕を知っていますから、泣き寝入りしたのですが、それでも額田王のことを忘れられずに、最初の歌に返事をしたというのが二番目のもの。

宴席で、額田王は「狩遊びの途中で、あなたが恋しい素振りをすると、警備の者に見られてしまいます」と歌い、大海人皇子が「だって、今は兄の嫁さんだけど恋しい気持ちはかわらない」と返歌したわけ。天智天皇もその場にいたかもしれないので、けっこう際どいお戯れだったというところ。

他にも、大海人皇子は、天智天皇の前で舞を見せた時、槍を床に本気で刺して怒らせたという話もあります。もともとは仲の良い兄弟だったようですが、二人の仲が決定的に崩れるきっかけになったのが、大海人皇子が次期天皇というのが既定路線だったのに、天智天皇は自分の息子可愛さに大友皇子を太政大臣に任命し、事実上の後継者として指名したことでしょう。

身の危険を感じた大海人皇子は、さっさと出家して吉野に籠りますが、その2ヶ月後に天智天皇は近江の宮で亡くなりました。近江ではただちに大友皇子が即位して第39代の弘文天皇になったらしいのですが、日本書紀でははっきりした扱いは無く、天皇としてはリストから欠落しています。歴代の天皇に数えられるようになったのは、何と明治時代になってからで、この点については未だに異論があるようです。

年明けて672年、大海人皇子は挙兵し、近江方との間で内乱が発生し甥である大友皇子を討ち取りました。これが、世に言う壬申の乱で、日本初の本格的なクーデターです。日本書紀は、天皇ごとに即位前の状況を簡単に記述する「前紀」で始まり、その後から元年として経時的記録をして一巻を構成するというものです。ところが、天智天皇の次の巻は、丸々壬申の乱に関する記述のみという異例の扱いをしていて、その内容は次のような感じ。

春が過ぎ、近江朝廷が天智天皇陵を作るという理由で人夫を集めているが、それぞれに武器も持たせている、そして近江から飛鳥の間に見張りを配置し、物資の吉野への搬入を制限しているという情報が大海人皇子のもとに寄せられます。

これを受けて大海人皇子は、6月22日、各地に挙兵の知らせを送るとともに、ただちに一族郎党を引き連れて吉野を脱出し、近江にいた高市皇子とも合流。しだいに付き従う軍勢を増しながら6月26日に桑名に到着しました。近江方は大海人挙兵の知らせに動揺し、各地に加勢を依頼しますがことごとく失敗します。

大海人軍はさらに北進し、6月27日に美濃国の不破(徳川家康の関ケ原の戦いで有名!!)に仮の宮を設置し、高市皇子が自ら軍の先頭に立ち指揮すると申し出ました。大海人軍は自軍を判別するために、赤色の目印をつけ、不破から近江と伊勢から飛鳥の2方面から進軍、初めは近江方の勝利もあったものの、その後は敗戦が続き、ついに7月22日琵琶湖南端の瀬田の地で最終決戦を迎えます。

瀬田川の橋を挟んで対峙した両陣営は数万人で、後方は見えないくらいでした。物凄い砂ぼこりの中で、旗・幟が野を覆いつくし、鉦・鼓の音が鳴り響き、放たれた矢はまるで雨のように降り注いだということです。そして、大海人軍は橋を強行突破し敵陣に踊り込み、近江方は一気に総崩れとなりました。大友皇子は7月23日に西の山前の地に逃げ延びますが、これまでと覚悟を決めて首を括って自害してしまいました。

・・・ちょっと、あれれというのが、大海人皇子自身は全く戦いの場にはいないんですよね。不破の宮にじっとして、ただ勝利を待っていただけみたいなんですよね。日本書紀の記述からすると、何かひたすら祈って神の力を引き出していたみたいなことなんでしょうか。

それはともかくとして、ここに乱は終結し、大海人皇子のクーデターは成功し、翌673年2月についに第40代、天武天皇として即位したのでした。