年末年始診療 12月29日~1月5日は休診します

年内は12月28日(土)まで、年始は1月6日(月)から通常診療を行います

2018年1月15日月曜日

古代豪族考 (3) 有力氏族 其之一


豪族の中で神別とされる種々の神を祖とするグループについては、「天孫降臨」の話で、天照大御神の孫にあたる邇邇芸命と一緒に天下ったたくさんの天つ神がいたことを思い出します。それぞれの名と同時に、地上に降り立った後何の祖先であったかが明記されています。

天児屋命(あまこやねのみこと) 中臣連らの祖
布刀玉命(ふとだまのみこと) 忌部首らの祖
天宇受売命(あめのうずめのみこと) 猿女君らの祖
伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと) 鏡作連らの祖
玉祖命(たまのおやのみこと) 玉祖連らの祖
常世思金神(とこよのおもいかねのかみ) 神の祭事・政事
手力男神(たぢからおのかみ) 佐那々県に鎮座
天石門別神(あめのいわとわけのかみ) 御門の神
天忍日命(あめのおしひのみこと) 大伴連らの祖
天津無久米無命(あまつくめのみこと) 久米直らの祖

このあたりが、ほとんどファンタジー色の濃い神代の話と世俗との最初の接点になっています。天下った神以外からもたくさんの氏族が派生してくるのですが、これらの系譜は混乱し過ぎてわけがわかりません。

当然、少しでも自分の立場を有利にしたいわけですら、それぞれの氏族は系図を作るときに、自分の出自を高貴なものとしたいという潜在的な希望が働くのは当然です。また記紀編集時のヤマト朝廷内の力関係も配慮されるはずです。

平安時代に作られた「新撰姓氏録」に掲載された氏族一覧は、 群馬県立女子大学北川研究室HP(http://kitagawa.la.coocan.jp/data/shoji.html)にて閲覧できます。この労作データの中を子細に見て行けば、どんな氏族がいてその始祖が何かは朧気に見えてくる・・・はずなんですが、なかなか簡単ではありません。

有名無名を問わず、多くが似たような所に出自があるようで、もう頭が痛くなるだけで、自分専用ノートのようなこのブログで、簡単にまとめるということは到底できない相談という感じです。そこで、記紀で頻出する氏族についてのみ、概略だけ列挙してみたいと思います。

1. 葛城氏
実在が確認されている氏族としては最も古いものの一つ。武内宿禰のこどもの一人に葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)という人物がいて、神功皇后、応神天皇の治世に朝鮮半島に度々出兵して活躍した。朝鮮側の記録にもそれらしい人物が登場している。娘の磐之媛は仁徳天皇皇后となり、その後も多くの大王家との姻戚関係を結び、かなりの力を持つようになった。安康天皇が眉輪王により暗殺された時に、眉輪王が逃げ込んだのが葛城氏系の円大臣の宅であったため、雄略天皇により焼き殺され葛城氏は滅亡した。

2. 中臣氏
天児屋命の後裔で姓は連(むらじ)だったが、天武紀に朝臣(あそみ)に格上げ。東大阪付近から本拠としていたようで、垂仁・仲哀紀から登場する。ヤマト王権が拡大していく中で取り込まれ、神と人の間をとりもつ祭祀を担当した。そのため仏教に対しては否定的で、親仏派の蘇我氏と対立し一時衰退するも、皇極紀に登場した中臣鎌足が、後の天智天皇と組んで蘇我氏を滅亡させ、その後の大化の改新の重要ブレーンとして活躍する。鎌足は無くなる直前に「藤原」の氏と大臣の位を賜り、以後藤原氏と呼ばれたが、律令制の下では次第に影を薄くしていった。

3. 忌部氏(斎部氏)
布刀玉命を祖とし、神事を司る氏族。主として各社祭祀に必要な物品を各地から収集・献上していた。天智紀以後、中臣氏が力を増してきたため祭祀権を中臣に独占されるようになり衰退する。平城紀に、末裔である斎部広成が、「古語拾遺」の中で天皇に中臣優遇を見直すように訴えたのが有名。

4. 蘇我氏
蘇我氏は、古代史上、最大の悪役スター一家かもしれません。天皇の名前は知らなくても蘇我入鹿を知らない人はいない。欽明紀の蘇我稲目から頭角を現し、馬子、蝦夷、入鹿までの四代が有名。それ以前は不明な点が多いが、葛城氏との関係があるらしい。本家とは別の傍流も多い。律令制が導入される前に、天皇も凌駕する勢いを持った最後の豪族と言える。早くから親仏の姿勢を見せ、馬子は厩戸皇子と共同で朝廷を牛耳っていた。有名な石舞台古墳は馬子の墓と言わりている。入鹿の目に余る横暴振りは反感を買い、ついに乙巳の変を引き起こし、蝦夷共々蘇我氏は突然消えてしまう。

5. 大伴氏
雄略紀、おそらく5世紀半ばから 大王直属の軍の指揮官として登場する。特に目立つ活躍は、天皇家の血統が途切れる危機の時に、各地を探し回って継体天皇を即位させた立役者が大伴金村連。蘇我氏全盛期には格下げにあったが、その後再び力をつけ、奈良時代には名門貴族に復権し、中には万葉集編纂に大きく関わる大伴家持のような文人も輩出した。平安時代になって、応天門の変で事件の黒幕として流罪になり、大伴氏は消滅した。