2018年1月25日木曜日

続日本紀 (6) 平城京の野心の顛末


誰かの地位をあらわす言葉を「官位」と呼び、その中で仕事の種類によって上下をつけたものが「官職」、貴賤の差をつけたものが「位階」です。天皇はもちろん王として別格で、その下に、政策を造り実行する今の内閣にあたるのが太政官、神事を司る神祀官の二つが奈良時代の政権実務の両輪と言えます。

太政官のトップが太政大臣で、その下に就くのが左大臣、右大臣。さらにその下が大納言、少納言です。位階では太政大臣は正一位、従一位、左右大臣は正二位、従二位、大納言は正三位でした。道鏡は、これらの位階を一気に飛び越し、765年に太政大臣と同格とする太政大臣禅師の地位を得るというのは、孝謙太上天皇から重祚した称徳天皇の寵愛があるとはいえ、相当な軋轢を生じたことは疑いようがありません。

766年には、隅寺の毘沙門天像の中から仏舎利(仏陀の遺骨の一部)が出てきたということで、だいたい的な式典をした上で、天皇は道鏡を法王とすると言い出し、天皇と同格扱いにまでしてしまいます。道鏡の一族もたくさん官位を得るのですが、特に768年、道鏡の弟、弓削御浄清人は大納言に取り立てられました。

像から仏舎利を発見したのは基真という僧で、その功績により道鏡と共に出世したのですが、威張りまくって好き勝手を始めます。もちろん、仏舎利発見というのはありえない話なので、基真が最初から像にそれらしいものを埋め込んでおいたものだったようです。当然、そもそもは道鏡の指図だった可能性が高い話なんですが、仏舎利の偽りがばれたらしく、すべては悪行の多くなった基真の責任にして流刑にしてしまいます。

769年、本来天皇が使う場所で、新年の祝辞を宣じたのは道鏡でした。この年、皇位継承に関わりそうな、恵美押勝と共に殺された塩焼王の妻と子を土佐に流刑します。そうこうしていると、大宰府の神官からは、「道鏡を天皇にすれば天下泰平」と宇佐八幡神のお告げがあったという知らせが来ました。天皇は和気清麻呂を使いに出し、真偽を確かめることにしました。

出発の間際に道鏡は「わかってるよね。君も出世したいよね」と言って、ぽんぼんと肩を叩いたらしい。ところが、真っすぐな清麻呂は、帰ってくると「臣下を君主にすることはかつて無い。天皇の位は皇室が守るべきもので、無道の者は排除すべし」と、神託を報告したのです。

天皇は怒った。清麻呂の姓をとりあげ、名を穢麻呂(きたなまろ)と変えさせ流刑に処しました。当然、道鏡も怒った。そもそも神託を出させたのも、道鏡が裏で手配していたもの。流刑される清麻呂に刺客を送りますが、悪天候のため失敗したらしい。

それでもめげない二人は、今度は道鏡の故郷である河内国弓削郷(大阪市八尾市)にあった行宮を平城宮と同格にすることにしました。しかし、天皇は体調を崩し770年に亡くなってしまいます。左大臣藤原永手と右大臣吉備真備が協議して白壁王(天智天皇の志貴皇子のこども)を、空位になっていた皇太子に立てます。天皇は天武から聖武に引き継がれる皇統を重視していましたが、ここに天智系が回復することになりました。

後ろ盾を失った道鏡は、天から地に一気に足元が崩れ去るわけで、天皇崩御より3週間もたたないうちに、皇太子により「長きにわたって悪だくみを重ねてきた。本来は極刑にすべきところであるが、亡き天皇が手厚くしてきた経緯があるので、下野国薬師寺に左遷とする」ということになります。朝廷内の道鏡一族もことごとく流刑とし、和気清麻呂は名誉回復で都に呼び戻されました。数年後に、銅鏡は下野国で、いっかいの僧として亡くなりました。