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2018年1月26日金曜日

続日本紀 (7) 平城京から長岡へ


770年に称徳天皇が亡くなり、皇太子になった白壁王は、道鏡一派の処分が終了して、その年のうちに第49代の光仁天皇として即位しました。ここに、奈良時代に継続した天武系から、天智系の天皇への復帰が実現しました。ただ、光仁天皇は、この時すでに60才を超えていましたが、吹き荒れた粛清の嵐の中で、酒に溺れて皇位など興味がない振りをして、何とか逃れてきたらしいです。

もちろん天武系を推す勢力もあったようですが、白壁王の妃は聖武天皇皇女である井上内親王であり、天武系と天智系の鍔迫り合いの妥協点が光仁天皇を誕生させたようです。その調整役として頑張った右大臣吉備真備は、ほとほとお疲れだったようで、天皇即位を見届けて現役引退してしまいました。天皇は、翌年には息子の他戸親王を皇太子に立てています。そして、政権の両輪だったもう一方の左大臣藤原永手が亡くなり、舵取りを失った朝廷は再び不安定な状況に陥ります。

天智対天武の縮図は、天皇と皇后の間にも存在していたようで、二人の仲は一気に冷え込みました。772年に、突然皇后が「以前に、呪術を使って謀反を企んだ」という、よくわからない理由で皇后の地位を廃されました。さらに皇太子も連帯責任で廃されてしまいます。

翌年に山部親王を新たな皇太子とします。ただ、山部親王の母親は、百済から渡来した氏族の出身で、身分が低く力が無いので不安が残ります。そこで、井上内親王と他戸皇子を幽閉してしまうのですが、3年後に「二人揃って亡くなる」という記述があり、どう考えても自殺か暗殺と思わ、ここに天武系排除は完了しました。

光仁天皇はピンチヒッター的な即位で、年も取っていたので、天武系皇位継承者と道教の影響を整理整頓したくらいで、あまり目立った仕事は残せていませんが、気苦労はいろいろあったのかもしれません。781年に体調を崩したため山部皇太子に譲位しますが、年の瀬に亡くなりました。

皇太子は即位して第50代桓武天皇となり、弟の早良親王が光仁天皇の勧めにより新たに皇太子となりましたが、翌年には、まだまだ続く皇統のいざこざです。称徳天皇と道鏡にって土佐に流刑となっていた塩焼王の妻子、不破内親王と氷上川継は光仁天皇により復権したのですが、川継のクーデター計画が発覚したため、二人は再度流刑に処されました。

天武系天皇の時代はバブル景気で、どんどんお金を使ってたので、財政は厳しい状況に陥っていました。桓武天皇は「冗官整理の詔」を宣じ、その中で「官民共々、バブルはじけて疲れちゃった。とりあえず、生活はできるんだから、宮殿造りはやめ、役人も整理して倹約しよう」とのこと。ところが、口で言うことと、実際することはだいぶ差があった。

まったく理由はわからないのですが、ここで長岡への遷都の計画が浮上してくるわけです。また光仁時代から東北では蝦夷が度々反乱を起こしており、これの制圧にも多大な人費を要しました。

784年、工事開始から半年ほどで長岡京に遷都を敢行しますが、当然まだ実質的な都としての完成にはほど遠い。翌年、天皇が留守にしている間に、長岡京の造営監督をしていた藤原種継が、反遷都派の大伴継人により暗殺されます。大伴継人とともに捕まったのは、何と皇太子の早良親王だったのです。主犯連中は即処刑され、早良親王は流刑になります。ところが、早良親王はハンガーストライキの末絶命し、桓武天皇にとってはいつまでも恐れる「呪い」を残したのです。実は、息子の安殿親王を皇太子にするための桓武天皇の作戦だったらしい。

こうして、相変わらず血で血を洗うどろどろの皇位継承争いが延々の続き、道鏡のようなババ札も登場し、天平文化の華が咲く奈良時代はいよいよ終焉を迎えようとしています。
このあとのことは、日本後紀、さらに続日本後紀に記述されていくのですが、さらに一般向けの解説書は少ななく、続きはまさに歴史授業のように勉強するしかなさそうです。

とりあえず、「古代」と呼ばれ時代は、概ね知ることはできたかもしれません。もちろん、国史中心ですから庶民の生活とかには触れいませんので、まだまだ知りたいことはたくさんありますので、いろいろなテーマをさらに模索することは続きます。