2018年1月24日水曜日

続日本紀 (5) 平城京の貴僧と怪僧


急速に仏教を推進・拡大したため、何と困ったことに僧が不足することになりました。何しろ大仏開眼供養では、発見された名簿から1万人の僧が出席したというのですから大変です。そこで、唐から戒律をちゃんと教え広める先生を招聘しようということになり、754年に井上靖の小説「天平の甍」で有名な鑑真(がんじん)が来日することになりました。

揚州にいた鑑真は、請われて10年間に5回も日本に向けて出発するが、ことごとく阻止され失敗していたのです。しかし、6回目にしてやっと成功し、平城京で僧を管轄する役所のトップとして戒律の普及、伝来した経典の校訂作業などに努めました。政変とは関係ありませんが、日本の仏教にとっては最重要人物の一人として記憶に留めておきたいと思います。

この辺りの話からは、この当時の皇室の系図がわからないと、もう何が何だかわからないことになります。かなり複雑ですが、無理して列挙しておきます。

まずは、天武天皇(40)の主なこどもたち。
持統天皇との間に生まれたのが、草壁皇子のみ。その子が、元正天皇(44)文武天皇(42)吉備内親王
その他の妃との間に生まれる皇子は、
高市皇子。その子は長屋王鈴鹿王。長屋王と吉備内親王との間にできた子が、色膳夫王、桑田王、葛木王で、異母兄弟が黄文王、安宿王、山背王。
舎人親王。その子が、船王池田王三原王大炊王(淳仁天皇)。三原王の息子が和気王。
長親王。その子が、来栖王智奴王川内王
穂積親王。その子が境部王
新田部親王。その子が、塩焼王道祖王
さらに、大津皇子忍壁皇子磯城皇子弓削皇子がいます。

次は天智天皇(40)の主なこどもたち。皇后との間には子はいません。
天武天皇の妃になった皇女が、大田皇女持統天皇(41)新田部皇女大江皇女の4人。もう一人大事な皇女が元明天皇(43)
皇子は、建皇子志貴皇子(光仁天皇の父)、大友皇子(弘文天皇39)、川島皇子

天武系と天智系は、天武と持統の結婚、草壁と元明の結婚で直結します。他にも多くの皇子と皇女が結婚しています。ちなみに藤原不比等の娘、宮子と文武は結婚し、その息子の聖武天皇(45)はもう一人の不比等の娘、光明子と結婚し、生まれるこどもが基王孝謙天皇(46)です。

文字で見ていてもわかりにくいのですが、系図にしてみても近親婚の嵐で、ぐしゃぐしゃです。Wikipediaは最小限の系譜が収載されていますが、たぶん一番詳しい系図は「皇室・公家・武家・社家の系図 http://www.geocities.jp/keizujp2011/」が参考になると思います。

さて、756年、聖武太上天皇は、道祖王(ふなどおう)を孝謙天皇の皇太子にするよう遺言しました。しかし孝謙天皇は、翌年、太上天皇の喪に服すべきところ、道祖王は行いが淫らで注意しても正さないという理由で皇太子から降ろしてしまいます。代わりは、塩焼王、池田王を推す声があったが、結局、藤原仲麻呂が自宅で養育していた大炊王に決定します。

藤原仲麻呂は、さらに力を持ち軍も掌握できる地位に就きます。反藤原のトップは橘諸兄が亡くなり、息子の橘奈良麻呂になっていました。奈良麻呂は大伴古麻呂、塩焼王、道祖王、黄文王、安宿王と共謀して、田村邸を強襲するクーデター計画を立てますが、密告され仲麻呂に知られてしまいます。仲麻呂も奈良麻呂も皇太后からすると甥なので、穏便に叱って終わりにしようとしますが、仲麻呂は厳しい拷問を行い、塩焼王と安宿王は流刑、他は獄死させました。

758年、孝謙天皇は大炊皇太子へ皇位を譲位し、第47代淳仁天皇として即位しました。当然仲麻呂は朝廷の事実上のトップである右大臣、さらに太政大臣に昇進し、恵美押勝の名を与えられました。760年光明皇太后が亡くなり、歯止めが無くなった仲麻呂と孝謙太上天皇との関係は崩れ始めます。

翌759年、淳仁天皇は仲麻呂と縁がある近江保良宮に行幸し。どんちゃん騒ぎのあげく「ここを都にする」と言い出します。しかし、皮肉なことに、この行幸の時に体調を崩した孝謙太上天皇の治療のためということで、怪僧道鏡が朝廷へ出入りし始めるのでした。

翌年、平城京に戻り、太上天皇は男子が入れない尼寺の法華寺に住むようになり、ここから天皇に断りなく様々な勅を出し始めました。そして、ついに762年「天皇は仲麻呂にそそのかされ、私を軽んじた。自分の不徳の責任をとって私は出家したので、天皇には事実上皇位を降りてもらう」と宣言し、政権を奪還するのでした。763年には道鏡が少僧都に任じられ、太上天皇の寵愛を深めていきました。

年々、立場が悪化していた仲麻呂は、764年に太上天皇の命により畿内の軍隊の訓練を任されますが、それを反乱の準備とされ、朝廷側と戦闘に入らざるをえない状況に追い込まれました。かつて流刑にした塩焼王を天皇にしてやると言って仲間に引き入れますが、形勢不利な仲麻呂は近江に逃げ、琵琶湖のほとりで妻子、塩焼王ともども斬り殺されました。

直後に、道鏡は太政大臣禅師の位につき実質的な政務を任され、淳仁天皇は共謀の罪により廃帝され淡路へ、淳仁廃帝の兄弟の船王、池田王もそれぞれ隠岐、土佐に事実上流刑になります。そして孝謙太上天皇は重祚し第48代称徳天皇として再び即位しました。しかし、天武系の皇子をほぼすべて粛清したので、皇太子にできる人材がいなくなってしまい、ますます道鏡に頼るようになりました。淳仁廃帝を復位させようという勢力もあったようで、廃帝は翌年に淡路を脱出しますが、捕らえられ・・・翌日に亡くなりました。