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2018年1月4日木曜日

日本書紀 (10) 高天原への回帰


推古朝で厩戸皇子が主導して始まった律令体制は、天智・天武の兄弟天皇により、より強固なものに拡張整備され国家基盤は盤石なものになりました。しかし、その陰では、相変わらず皇位継承を巡る骨肉の争いが続いていました。

天武天皇の皇后は、父親が天智天皇で、母親は乙巳の変以後に右大臣を務めた蘇我倉山田石川麻呂の娘です。元の名は鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)といいます。

ですから、祖父(石川麻呂)は父親(天智天皇)に攻め込まれ自害しています。天智天皇の皇后は倭姫王(やまとひめのおおきみ)といい、子には恵まれませんでした。驚くことに、同母姉の太田皇女、異母姉妹の新田部皇女、大江皇女も天武天皇の妃となっているんですね。

鸕野讃良皇女の同母弟である建皇子は幼くして亡くなり、祖母である斉明天皇を深く嘆かせました。天武天皇を裏切り天智天皇が皇位継承しようとしてし、結局壬申の乱で自害に追い込まれた大友皇子は異母兄弟です。

なんか複雑すぎて、気が遠くなりそうなところですが、とにかく古代史には天皇家の系譜の理解が不可欠。ほとんどが一夫多妻の近親婚であることが、話をややこしくしています。

天武天皇と鸕野讃良皇女の間に生まれたのは草壁皇子。天武天皇には、他に大津皇子(母は太田皇女)、高市皇子、忍壁皇子らがいて、天智天皇の遺児である河嶋(川島)皇子、芝基(志貴)皇子を加えた六皇子が、吉野の盟約に呼ばれお互いに協力することを誓わされました。

686年9月に天武天皇が亡くなると、一月も経たないうちに大津皇子の「謀反」が発覚します。もともと、大津皇子は人物としては高評価だったようですが、最初の皇后であった母親が早世し、鸕野讃良皇女が新たに皇后になったため、その立場はかなり難しい状況にありました。天武の生前に草壁皇子が後継者と決まっていましたが、大津皇子を推す勢力もあったようです。

当時は、伊勢神宮はすでに皇祖天照大御神を祀り、天皇直轄の神宮としては入れるのは天皇のみでした。大津皇子は天武天皇崩御後ただちに密かに伊勢に向かったのでした。これは神宮に入って天皇の資格を得るという「謀反」と解釈され、捕らえられ翌日には処刑されます。

当時、伊勢神宮をきりもりする斎宮に就いていたのは、実の姉である大伯皇女でした。姉への思いからの行動とか、草壁皇子との関係も政敵というだけでなく恋敵でもあったとか、河嶋皇子が草壁皇子に取り入るために密告したとか、いろいろな説があります。いずれにしても、大津皇子に何らかの野望はあったのでしょうし、大津抹殺の陰には鸕野讃良皇女の意思が少なからず働いていた可能性は否定できません。

鸕野讃良皇女は称制をひき、実質的な政治運営を開始。最初の仕事は、天武天皇の葬礼でしたが、これは2年以上の長期に及び、草壁皇子を先頭に立て皇太子として後継者の地位を作るようにしていました。また天武天皇の意志を引き継いだ、飛鳥浄御原令を発布しています。ところが、何と草壁皇子は即位しないうち689年に病死してしまいます。

草壁の息子である軽皇子が、まだ幼児であったため、690年元旦についに皇后であった鸕野讃良皇女は自ら即位し、第41代持統天皇が誕生しました。最大の補佐役、太政大臣には高市皇子を起用します。天武天皇の希望だった藤原京の造営工事が開始され、694年に遷都しました。

持統天皇は、天武体制の完成のために、事あるごとに臣下の忠誠を披歴させ、飴と鞭をうまく使い分けていたようです。また、異常なほど多い吉野への行幸記事が目立つのは、天武への強い想いの現れなのかもしれません。また宮廷詩人として柿本人麻呂を庇護し、後に万葉集にも多く収載される自分を含む天皇を讃える歌を詠ませています。

696年に天皇を支えていた高市皇子が亡くなり、軽皇子を皇太子にに指名。697年には体調を崩し、軽皇子に天皇位を禅譲した記事を最後に日本書紀全30巻は終結します。

持統天皇は702年に亡くなり、天皇としては初めて火葬にふされ天武天皇陵に合葬されました。720年、神代から始まる日本書紀が完成した際に送られた諡号は高天原広野姫天皇でした。