2018年1月12日金曜日

古代豪族考 (1) 基本事項


記紀を勉強してみると、これは天皇家を中心とした歴史だということに気がつきます。ところが、その中に「~は、××氏の祖先」みたいな記述がよく出てくる。その××というのが、有力氏族であり、豪族ということになる。しかも、時代が進むほど、そり力は馬鹿にならないものになって、天皇家とも複雑に絡み合ってきます。

もともといきなり天皇家が日本を支配したわけではなく、群雄割拠する多種多様な勢力が凌ぎを削って、4~5世紀にかけてヤマト王権という形に統一されてきたことが、これまでの勉強でわかりました。言ってみれば、天皇家も元をたどれば豪族の一つということも言えると思います。

6世紀になるとヤマト王権の力は盤石の物になり、それぞれの地方を支配していた勢力は、しだいにヤマト王権に取り込まれ始めます。邪馬台国も、その中の一つだった、あるいはそのままヤマト王権に移行したのかもしれません。

ヤマト王権は、これらの豪族を武力制圧、あるいは同盟によって、当初は傘下に置いた形でした。そのために用意した飴と鞭は周到に準備され、記紀の中にそれぞれの豪族がどこから始まるかを書き込むことで彼らのプライドを守ったと言えます。

また、それぞれの豪族が信仰していた神々も、祀っていた古代神社も吸収し、記紀の中に取り込むことで、記紀が豪族の信仰の対象になり、それが天皇崇拝にもつながっていきます。豪族の独自の神は、吸収する過程で職業的スペシャリストとして特徴づけるようにしました。

ですから、朝廷内での序列決定に際しても、血筋というものに対してはたいへん重視し、豪族自らも正当な由緒ある系図を大切にしました。その上で、支配権を維持するために天皇家の系譜をより高いレベルで維持することは最重要課題の一つだったということです。

しかし、天智・天武天皇以後、律令制度が少しずつ形になっていく中で、豪族の実質的な既得権理は少しずつそぎ落とされ、次第に支配体制を強化することで臣下に変えていき「豪族」と呼ばれるものは消滅し多のです。

ヤマト王権の関係性から、豪族は中央系(大和系)、地方系、渡来系の三種類に分けられます。中央系は、畿内で早くから天皇家との協力関係があったもので、物部(もののべ)氏、蘇我(そが)氏、大伴(おおとも)氏など、三輪(みわ)氏、巨勢(こせ)氏などが含まれます。地方系は紀(きの)、吉備(きび)氏、忌部(いんべ)氏、出雲(いずも)氏などで、中国・朝鮮から移住してきた渡来系は和爾(わに)氏、秦(はた)氏など。

平安時代に作られた「新撰姓氏録」では、全1182氏族を皇別、神別、諸藩に分類して区別しました。皇別(335氏)は、天皇との血縁関係がある、またはその子孫から派生したものです。神別(404氏)は、記紀に登場する種々の神を祖先神とするもので、諸藩(326氏)は渡来系のもの。残り117氏は未定雑姓とされました。

記紀ではほとんど記述が無く、実績がよくわかっていない成務天皇は地本行政制度を整備したことはわかっていて、その中で氏姓制度が始まります。実際に制度化したのは允恭天皇と言われています。その理由というのが、「昔は名前を間違えることは無かったのに、最近は忘れちゃう奴や、高貴な素性を騙る奴が多くてやりにくい」というものでした。

そこで、氏族の名前に姓(かばね)を付与して、天皇家との関係を明確にしました。古くから天皇家と関わりがある氏族は「臣(おみ)」、職業のトップは「連(むらじ)」、天皇の血筋で地方に派遣されたものは「君(きみ)」、ヤマト王権の軍門に下ったものは「直(あたえ)」、渡来人は「造(みやつこ)」などと呼びます。

臣と連がエリートで、しかもその中のトップが大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)です。臣を与えられたのは中央では葛城、巨勢、蘇我、地方では吉備、出雲、連を与えられたのは大伴、物部、中臣などです。

後に天武天皇は、「八色(やくさ)の姓」を制定し、真人(まひと)、朝臣(あそみ)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣、連、稲置(いなぎ)という序列とし、豪族出身は皇族の下に置いて、上下をはっきりさせました。