2018年1月11日木曜日

魏志倭人伝 (3) 卑弥呼


魏志倭人伝の最後に書かれているのが支配者、卑弥呼に関する話です。天皇の名前は知らなくても、誰もが「卑弥呼」は聞いたことがあるもので、日本古代史最大のスターと言えるかもしれません。

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元々は男の王が、80年くらいは続いていたが、倭国が乱れ、国同士が互いに戦乱を起こしていた。そこで、共同で女性の王を立てておちついた。女王の名は卑弥呼といい、鬼神を祀る者で、人々を掌握する力を持っていた。すでに高齢で、独身だった。弟がいて、国を治めるのを手伝っていた。

王になってから、姿を見たものはほとんどいない。千人の侍女が世話をしていて、食事を運んだり言葉を伝えるのに男性が一人宮殿に出入りしていた。宮殿は城壁、木の柵で囲み、警備も厳重だった。

景初2年(西暦239年)6月に卑弥呼は帯方郡に使いを派遣し、魏の天子との面会を要望した。12月に魏の皇帝は詔書を下し「遠路はるばる朝貢しにきたことはご苦労であった。卑弥呼を親魏倭王と認め、金印と紫綬を送る。合わせて、金、刀、真珠、銅鏡百枚なども送る」とした。正始元年(西暦240年)にこれらは倭国にもたらされた。

正始8年(西暦247年)、卑弥呼は狗奴国の卑弥弓呼(ひみくこ)とは以前から不仲で、しばしば争いが起こっていた。この年、卑弥呼は亡くなり直径が百余歩もある大きな墓が作られ、百人ほどの奴隷が殉死された。

後継者に男の王が立てられたが、人々は服従せず、国内は不穏な状態が続いたため、卑弥呼の13歳の宗女(娘?)、台与が女王に就いたところ鎮まった。

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以上が、卑弥呼に関する記述のほぼすべてです。魏志倭人伝と呼んでいる、魏国の使者による倭国レポートはこれで終了。全部で漢字二千字程度で、見たこと聞いたことを淡々と報告しているので、文字数の割には内容は濃いように思います。

まず、最初のポイントは卑弥呼が女王に即位する前に「倭国大乱」と呼ばれる、国土の広い範囲に戦争が継続していたというところ。実は最新の研究で、植物の年輪に含まれる成分の研究から、西暦120年ごろから数十年間の間、極度の天候不順が続いていたことがわかっています。

これは、作物の凶作を引き起こし、戦争の引き金になったものと考えられています。卑弥呼が王位に就く3世紀頃には、気候は安定してきているので、卑弥呼のお陰なのか、あるいはたまたまたそういう時期だったのかわかりませんが、世の中は平和を取り戻すことになったと思われます。

もう一点は、魏の年月がかかれていることです。これによって、卑弥呼の亡くなった年がはっきりしているのです。日本書紀の年号を信用するなら、卑弥呼の活躍していた時代は神功皇后の治世とほぼ一致していて、亡くなったと思われる年は数十年以内の違いとなります。

当時国内では青銅器の使用が中心で、まだ鉄を鋳造する技術はありませんでした。邪馬台国は中国から鉄製品を手に入れることで、より文化的にも優位性を保っていたと考えられています。

魏から送られた親魏倭王の金印は発見されていませんが、見つかれば邪馬台国所在地論争を終わらせる決定的証拠になるといわれています。また銅鏡百枚は、いわゆる三角縁神獣鏡と呼ばれているものと考えられ、微妙な研磨の結果、反射した光に模様が映し出されて、卑弥呼の「鬼道」の一つになっていたと言われています。

それにしても、高齢で独身だったというのに、13歳の娘がいたというのは・・・不思議な感じですけどね。年齢的には、台与が神功皇后だと考える説もあるようです。