2018年2月26日月曜日

古代終焉 (5) 形骸化していく天皇


薬子の乱が落ち着き、いよいよ平安京が始動しました。第52代嵯峨天皇は桓武天皇の第2皇子で、文人としての才能に秀でていました。嵯峨天皇、空海、そして橘逸勢は三大名筆家として有名です。天皇を囲んだ詩文が盛んになり、宮廷はサロンのようだったと言われています。遊行も好み、あちこちに出向いてその時々の式の景観を楽しんだようです。

嵯峨天皇は、自分のこどもたちに姓は朝臣、源(みなもと)を名乗らせます。独立させることで、朝廷の費用節約効果を狙ったわけですが、これが後の源氏の始まりとされています。天皇は、823年に弟である大伴親王に譲位し、お気に入りだった嵯峨院に移り842年に嵯峨上皇として亡くなりました。

桓武天皇の第3皇子であった大伴親王は、第53代淳和天皇として即位しました。このあたりから皇位継承の順位の決め方は複雑で、理解の範囲を超えてしまいます。淳和天皇は、皇后のこどもであった平城・嵯峨天皇とは母親が違う。そして、第1皇子である恒世親王は、淳和天皇の皇后の子ではありません。そこへ、第2皇子として皇后が恒貞親王を産みます。ところが、恒世親王の方が桓武天皇に最も近いらしい。

いずれにしても親を飛び越して恒世親王を天皇に即位させられないため、淳和天皇に順番が回ってきたということらしく、当初は淳和天皇は桓武上皇が亡くなったときに面倒を避けるために臣下降格を願い出ていました。しかし、嵯峨上皇はこれを認めませんでした。結局、即位した淳和天皇は、恒世親王を皇太子に立てますが、即日、本人が辞退してしまいます。そこで、嵯峨上皇の子である正良親王が立太子しました。

833年、天皇は正良親王に譲位しようとしますが、またもや本人が嫌がってしまうという事態に陥ります。しかし、桓武天皇以来仕えている右大臣、北家の藤原冬嗣の勢いは無視できないほど強く、正良親王は冬嗣の娘を妃とし、さらに道康親王をもうけている以上、それ以外の選択肢はありませんでした。

正良親王は嫌々即位し第54代仁明天皇となり、淳和天皇の第1皇子だった恒世親王は数年前に若くして病死していたので、第2皇子の恒貞親王を皇太子に立てます。しかし、直後に承和の変が発生し廃太子され、道康親王があらためて皇太子になりました。これは、冬嗣の息子の良房が、平城天皇の息子である阿保親王をたき付けて起こさせてものらしく、橘逸勢らがクーデターを計画したというもので、恒貞親王は濡れ衣の巻き添えだったようです。850年に天皇は病没し、道康親王がただちに第55代文徳天皇として即位しました。

文徳天皇には、紀氏系の妃が産んだ惟喬親王が第一皇子でしたが、藤原良房の娘も天皇即位の年に第2皇子として惟仁親王を産みました。結局、藤原北家に逆らえなくなっていた天皇は生後9か月の惟仁親王を皇太子とし、良房は太政大臣に昇格します。

もう、藤原家の勢いを抑えることはできません。天皇のそばには藤原家の娘を大量に送り込み、右大臣には良房の弟、良好が就きます。そして、この時期に多くの皇位継承の可能性のある親王が出家しているのも、ただの偶然とは思えません。

858年、文徳天皇が亡くなり惟仁親王が第56代清和天皇として即位しましたが、この時わずか8歳でした。当然、藤原良房が摂政の位置に入り完全に実権を掌握します。866年には応天門の変が発生します。大内裏八省院の正面の応天門が焼失したのは、左大臣源信の仕業であると大納言大伴善男が訴えましたが、虚言だとされ逆に大伴氏、それを助けたとされる紀氏が中央から退かされ、源信も以後は表舞台からは消えてしまいました。

872年、藤原良房は亡くなりますが、その地位は良房の兄である長良の息子で、良房の養子になった基経が継いでいきます。天皇は、876年にわずか27歳で、妃の一人である長良の娘の高子が産んだ9歳の貞明皇子に譲位し4年後に亡くなりました。もはや、天皇は実質的な権力は何も持たない存在であり、藤原家が権力の主座に座り、藤原氏の手の中で転がされているだけの存在となっていました。