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2010年10月8日金曜日

平等と差別

今回は、かなりヘヴィなタイトルをつけてしまいました。あんまり、真面目なことを書くと照れくさいし、だいいち自分がそんなことを語れるほど立派な人間ではないと思ってしまいます。

ですから、まぁ勝手な思い込みみたいなものですし、読む方がいるならできるだけ軽く読み流してもらったほうがいいかと。

平等というのは、「かたよりや差別がなく、すべてのものが一様で等しいこと」という説明は広辞苑。何しろ、日本語の辞書としてはもっともぶ厚いものに書いてあることですから、尊重しないわけにはいきません。

でも、すべてが一様で等しいなんてことがあるでしょうか。いろいろな立場の人々がいて、いろいろな価値観が混沌としたこの世界ではありえないでしょう。そうなると、やはり五代目立川談志師匠の言ったことが素直にうなずける。

つまり「平等」とは、お互いの差を認めることであるというもの。それまで、談志は落語の本流からは外れた噺家というイメージだったのですが、これを聞いてからは好きな落語家になりました。

そうです。差があって当たり前。差を認めないことは悲しいことで、やさしさとか思いやりは差に気がついて生まれてくる感情なのでしょう。そういう意味では、その差をしっかり認識することは「差別」ということなのかもしれません。

しかし、実際のところ「差別」というのは、そんな温かい感覚とはだいぶかけ離れたところで行われています。日本でも歴史的に「部落問題」を持ち出すまでも無く、陰湿な差別は厳然たる事実として存在し続けています。

差別では、互いの差を優劣という感覚で表現している場合が多く、ある意味誰かより優勢な立場に立ちたいというのは人の本能的な願望なのかもしれません。しかし、現実には「互いの差を認める」ことができれば、人と人の間には優劣は無くなるのではないかと思います。

例えば医者と患者の関係では、昔は「お医者様」という表現が語っているように、医者のほうが明らかに優位に立っていたわけです。経済的にも、医者は平均的な生活水準からすれば明らかに上のランクでした。患者は「病気を治してもらう」という立場から、すでに劣勢に立たされていたということもあるでしょう。

しかし、この20年間くらいの中で、病気を治すのは医者と患者との共同作業であり、どちらかが優勢に立つようなものではないということに医療界がきがついたのです。大変気がつくのが遅い話で、もう恐縮するしかありません。

ただ、最近はその傾向がさらに強まり、むしろ一部に患者のほうが優位に立つような動きがあることも事実で、誤解を恐れず言うなら、自分は強い違和感を感じているところもあります。これは、何も医者と患者との関係だけの話しにとどまる事ではありません。

人権というものを大切にする風潮が強まっている反面、個人の権利の主張が膨張して、他人を愛する部分と排除する部分の両極端の価値観が混迷を極めているのが現代社会ではないでしょうか。

あらためて言います。「平等」とは互いの差を認めること、そして「差別」も互いの差を認めること。おそらく二つの言葉の中間にあるのが真実なのでしょうね。