キリスト教の教会暦では、いよいよ「受難週」に入ります。教会暦をわかりにくくしている最大のポイントは、イエスの復活を記念する復活祭を、「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」として移動祝日にしたことにあります。
従って、イエスが十字架に磔刑になって亡くなるのは、その3日前の金曜日。その週の頭の日曜日が、エルサレムに入った日で、棕櫚(枝)の祝日として受難週の幕開けとなります。
原始キリスト教では、復活祭はユダヤ教の過越の祭に行われ、その始まりはユダヤ暦「ニサンの月の14日」に固定されていました。しかし、2世紀から日曜日に全教会が復活祭を行うようにするため、いろいろな論争があり、今のかたちになったと言われています。
それでも、 グレゴリオ暦を用いるカトリック、プロテスタントと違って、東方教会はユリウス暦を用いるため、今でも復活祭の日には世界中のキリスト教で一緒ではありません。
そんなこんなで、混乱の多い話ですから、ましてやキリスト教徒ではない自分にとってはややこしいことこの上ない。教会暦に沿ってバッハの教会カンタータを順番に聴こうという試みは、多くの人が考える事ですが、この当たりの整理をつけておかないと何をいつ聴くか決められないのです。
さて、棕櫚の祝日の話です。ナザレ地方出身の若者であるイエスは、たくさんの奇跡を起こし信奉するものが増えていきました。そして、ついに中心地であるエルサレムに到着したときには、人々は凱旋者を祝うための棕櫚の枝を持って歓迎したということになっています。
翌日の月曜日には、エルサレム神殿の中で店を開いて利益をむさぼっている人々に、「わたしの家を強盗の家にするな。わたしの家は祈りの家と称えられるべきなのだ」と叱って追い出しました。
火曜日には、この新興勢力に危機感を感じていたユダヤ教の司祭たちとの間で、やりとりがありました。ここで、旧勢力としては、危険分子としてイエスを排除することを再確認したのでしょう。
水曜日は、エルサレムから出て近くの村で休みます。ここで、イエスはベタニア村のマリアから高価なナルドの香油を注がれます。イエスは「わたしの葬りの用意をしてくれた」と説明しますが、イスカリオテのユダは納得できず、こっそりとエルサレムに赴き、銀貨30枚でイエスを祭司長に引き渡すことを約束します。
木曜日に、イエスは弟子たちと過越の祭りの食事、つまり「最後の晩餐」を行い、ゲッセマネの園
で祈りを捧げます。その直後に、裏切りの者のユダに引き連れられてきた者達に捕らえられ、ユダヤの法廷に連れて行かれます。
ユダヤ教に対する冒涜者と決めつけられたイエスは、ローマに対する反逆者としてローマ総督ピラトのもとに連れて行かれます。ピラトは、イエスを赦そうとしますが、ユダヤ人たちの執拗な訴えにより十字架刑を決断しました。
そして、金曜日の朝、イエスは自ら架かる十字架をゴルゴダの丘まで引きずっていき、刑に処せられ、午後3時に息を引き取ったとされています。
今日のカンタータは、マリアのお告げの祝日であげたものがあり、実質的には今日のために演奏されるべきものとなります。
今週は、カンタータよりも、別冊超特大号みたいな位置づけになる「受難曲」を聴くべき週ですから、金曜日に向けてマタイ、ヨハネの両受難曲にどっぷりと浸りたいと思います。