復活節までの秒読みも、大詰めに近づいてきた感があります。
今週もバッハのカンタータはお休みなので、聴くべき音楽が無い。300年前のライプツィヒでは、それを当たり前のこととして受け入れていたのでしょうから、教会暦に沿って聴くと決めた以上はしょうがない。
イエスの復活ということは、当然その前に「死」があるわけで、その「受難」と呼ばれるエピソードを中心にしたものが受難曲です。
12世紀頃には、復活節前第1主日(つまり今度の日曜日、棕櫚の主日とも呼ばれます)、聖火曜日、聖水曜日、そして聖金曜日に、礼拝の中で4つの福音書から受難にまつわる部分を、ほぼ単一音階によって朗誦するのが通例でした。
13世紀になると、説明部分とイエスの言葉とそのほかの登場人物の言葉を、別々の司祭や助祭らで分担するようになります。特に説明のための地の文を担当する者を福音記者(エヴァンゲリスト)と呼ぶようになります。
15世紀には、多声化が進み「受難曲」と呼べる形式が整ってきます。宗教改革以後、ドイツではドイツ語の受難曲が登場し、さらに4つの福音書を突き合わせて一つの物語とする総合テキストが使われるようになります。
17世紀、バロックの時代になると伴奏楽器が用いられるものも登場します。そして、何よりも一番の大きな変化は、自由詩や讃美歌を挿入するようになったことです。聖書の文章(聖句)のみに対して、より感情に訴えるものが作ることができるようになり、これを「オラトリオ受難曲」と呼びます。
さらに一歩進んで、受難記事を完全に新作するようになると、これらは「受難オラトリオ」と呼ばれるようになり、テレマン、ヘンデルらが曲をつけたブロッケス受難曲は有名です。
すでにテレマンのブロッケス受難曲がライプツィヒでも演奏されていた後にもかかわらず、バッハの受難曲は「オラトリオ受難曲」の形式であり、ある意味古臭い音楽だったといえます。