ヘンデルは本名をGeorg Friedrich Händelと云うわけで、もともとはドイツ人、ザクセンのハレという街で生まれました。1685年2月23日のことですから、だいたい350年前くらいのこと。
これはハレの聖母マリア教会の洗礼記録というのが残っていて、生年月日については間違いがありません。ちなみにヨハン・セバスチャン・バッハは、何と同い年で、1685年3月21日生まれですから、わずかに1カ月としか違わない。
少なくとも一地方都市の教会音楽家のバッハのことなど、ヘンデルはまったく意に介していなかったと思いますが、バッハは国際的有名人になったヘンデルに会おうと2度チャレンジして、いずれも失敗している。
現代では音楽の父・母と称される二人は、同じバロック期に活躍した音楽家としてとにかく対照的な人生を歩みました。
二人ともキリスト教徒ですが、プロテスタントは共通ですけど、バッハはルター派でヘンデルはカルバン派。
音楽家の家に生まれ、音楽の道に進むのが当然だったバッハに対して、ヘンデルは法律家にしたかった父親の希望に逆らいました。
2度の結婚で子どもを20人も作ったバッハですが、自由人ヘンデルは生涯やもめ暮らしです。
宮廷に仕えたり、教会の中に入って、いろいろな手かせ足かせの元で仕事をしたバッハに対して、自由にヨーロッパを行き来して、うまく宮廷などに取り入ったものの、最後のところで自由を放棄せず好きに生きたヘンデル。
いつも根底に厳格な信仰心を貫き、少人数の楽団しか使えない音楽活動を中心にしたバッハ。ヘンデルは、貴族、大衆を楽しませる歌劇作りを中心に、時には大人数の歌手や演奏家を自由に使ったヘンデル。
亡くなったのは、バッハが1750年7月28日、65歳でした。ヘンデルは1759年4月14日、74歳。実は、晩年に二人とも眼の病気を患い、ジョン・テイラーという眼科医の手術を受けているという偶然があり、そして二人とも手術は失敗とされているのが唯一の共通点かも。
これだけでも、ヘンデルの人となりは何となく見えてきますが、ヘンデルの生涯をもう少し詳しく追いかけていくことにします。バッハについては、教会歴に沿ってカンタータを聴くというテーマで、かなり細かい点まで掘り下げた(・・・つもり)ので気になる方は以前のエントリーを参照してください。
ヘンデルは、だいたい3つの時期に分けて考えるのが便利そうです。
1. 1685~1711年
ハンブルグ~イタリアでの修行時代
2. 1712~1738年
イギリスでのオペラ時代
3. 1739~1759年
イギリスでのオラトリオ時代
修行時代というと、最初の音楽との接点はハレの教会です。ヘンデルの父親は音楽とは無関係の仕事でしたが、反対する父親をよそにヘンデルは隠れて教会のオルガン奏者シァハウを初めての師とします。
当地の宮廷からは音楽の才能があると目を付けられ、父親にも音楽家にするように勧められます。でも、お父さんは頑なに拒否し、ヘンデル自身もそんな頑固な父親に対抗して1703年、17歳で強行的に自由都市ハンブルグへ旅立ちます。
カトリックとプロテスタントの対立から起こった三十年戦争が終わって50年という時代。ドイツは国土の荒廃から立ち直りはじめ、特に北の玄関、自由都市ハンブルグは文化的にも熟成していた時期です。
すでにオペラは、ハンブルグの一般大衆の重要な娯楽として定着していました。ヘンデルはヴァイオリン奏者、鍵盤奏者として名を上げると同時に、作曲活動を開始します。
劇場の監督だったラインハルト・カイザーの配慮で、1705年に初めてのオペラである「アルミラ(Almira)」が作られ好評を博しました。しかし、続く3作はぱっとせず、楽譜も失われています。
当時の音楽の最先端はイタリアです。ヘンデルのオペラもイタリア音楽を見様見真似で作り、うまくいかないなら本場にいくしかないと思うようになったんでしょうね。
1706年、ヘンデルはついにイタリアに向かいます。ローマ、ヴェネチア、ナポリなどを行ったり来たりしながら、スカルラッティ、コレッリらと親交を深めます。
演奏家として評判をとると同時に、教会、宮廷などのパトロンをうまくつかみますが、カトリックへの改宗を拒否したり、あくまでも自由人として振る舞います。
1707年、「時と悟りの勝利(Il Trionfo del Tempo e del Disinganno)」はイタリアでの最初の大作ですが、オペラではありません。当時のローマはオペラが禁止されていて、形式的に演技を控え、題材を宗教的にしたオラトリオが盛んに上演されていました。
この作品の上演の練習では、コンサートマスターであったコレッリが、「イタリア風」じゃないからうまくヴァイオリンを弾けないと言うので、ヘンデルは「こうするんだ」と見本を見せるというエピソードが残っています。
「時と悟りの勝利」はカトリックの枢機卿による台本によるもので、ヘンデルはイギリスに渡った際に再度改変して上演し、さらに生涯最後の作品でも2度目のリメイクを行っています。
1708年のオラトリオ「復活(Resurrezione)」も初期の重要作として忘れてはいけませんが、この時期、ヘンデルの作品として重要なものはイタリア語のカンタータでしょう。
短い物から長めの物までかなりの数が残されていて、後にいろいろなオペラやオラトリオにも流用されているものも少なくありません。特に1708年の「アチ、ガラテアとポリフェーモ(Aci, Galatea e Polifemo )」が有名です。
1709年、ローマを離れてヴェネチアでイタリア生活2作目になるオペラ「アグリピーナ(Agrippina)」を作曲しました。これは、イタリアでの作品の多くからの流用を含み、イタリアでの集大成とも言える作品ですが、逆に急な依頼による仕事だったのかもしれません。
いずれにしても、「アグリピーナ」を最後にヘンデルはドイツに戻り、ハノーファーの宮廷楽長に就任します。しかし、実際は就任直後に休暇をとり、生家のあるハレを訪れたりして楽長としての仕事はまったくせずに1710年ロンドンに向けて出発してしまいます。