「幻の光」は、是枝裕和監督の初長編劇場映画です。また、主演の江角マキコにとっても、映画デヴュー作。
国内での評判は悪くはありませんでしたが、海外でも評価され第52回ヴェネツィア国際映画祭金オゼッラ賞、バンクーバー映画祭グランプリ、シカゴ映画祭グランプリを受賞しました。
監督の是枝裕和は、幼いころから映画に親しみ、番組制作会社テレビマン・ユニオンに入社、テレビ番組の制作に携わりました。1991年に初めてドキュメンタリーを手がけ、ドキュメンタリー作家として注目され始めました。
そして1995年に初めての劇場映画として作られたのが本作ですが、原作は70年代から人気作家だった宮本輝の短編小説。残念ながら、自分は原作読んでいません。しかし、宮本輝を知る方々からは、宮本の持つ雰囲気を原作以上に感じることができると評価されています。
出演は、主演の江角マキコ以外に、最初の夫に浅野忠信、再婚相手に内藤剛志、舅に柄本明、母親が木内みどり、その他にも比較的有名な方々が脇を固めています。
今でこそ凄いメンツが集まったと思いますが、当然江角は俳優デヴューですし、浅野も注目され始めたばかりの若手。内藤は中堅どころですが、やっと名が知られるようになった頃です。つまり、中心となる三人はいずれも、当時は今ほど有名ではありませんでした。
予算の制約もあったのかもしれませんが、このキャスティングは、ドキュメンタリー作家としてスタートした是枝の意図的な選択があったと思います。この物語は、理由がわからずに家族を失うトラウマを持つ女性を淡々と追い続ける、ある種のドキュメントです。
見るものが有名俳優によって、最初から一定の主観を持つことを避け、フィクションですがあくまでもノン・フィクションのように作ることを意図したように思います。ですから、これほどあらすじを書きにくい映画も珍しい。
尼崎の工場街、「下町」に住むゆみ子は、幼い頃に祖母の失踪を止めることができなかった心の傷を抱えていました。幼馴染の自転車が大好きな郁夫と結婚し、こどもが生まれささやかな幸せな日々を送っていた時、突然郁夫が「自殺」してしまいます。
数年して、妻に死に別れた子連れの民雄と再婚し能登半島の海沿いの寒村に移り住むことになりました。こども同士はすぐに打ち解けていき、ゆみ子もしだいに新しい家族、近隣の人々、そして厳しい自然に晒される能登の生活に慣れていきます。
しかし、弟の結婚式で尼崎に戻り、かつてのアパートを訪ねたゆみ子は、まったく理由がわからずに死んでいった郁夫の事が再び大きな心の重荷になり、能登に戻ってもふさぎ込むことが多くなります。
誰かの葬列の後ろをついていくゆみ子は、荼毘に付される炎をじっと見つめていましたが、迎えに来た民雄に「郁夫が死んだのは何故なんだろう」とに問いかけます。民雄は、「わけもなく引き込まれる光を見つけてしまうことがある」と答えるのでした。
好天に恵まれた日、民雄はこどもたちに自転車の乗り方を教え楽しみ、それを見ているゆみ子は舅に「いい日和になりました」と話しかけるのでした。
なんとかストーリーを拾っていくとこんな感じですが、セリフは少なく、積極的な説明もほとんどないので、ものすごく静かに話が進行していく感じです。本当に、どこにでもありそうな普通の会話がところどころにあるだけ。
それを全編にわたって距離を置いたロングショットで、印象的な風景の一部として捉えていきます。俳優のアップはごく稀で、表情による演技は無いと言ってもよい。また、屋内はあえて暗く、日中でも逆光での撮影を多用しているため、絶えず物語を客観的に淡々と進めていくのです。
また、あくまでも彼らを見つめる観客の視点を重視する横からの撮影にこだわったところも、映画の特徴を印象付けています。このあたりは是枝が、しばしば「小津」的と呼ばれる所以の一つのようです。
見ている側は、これらの手法により俳優たちに感情移入することはできません。もしも、登場人物の主観で描かれていたら、彼らの気持ちになって鑑賞することになり、何故祖母が失踪したのか、何故郁夫は自殺したのか、何故民雄は自分と再婚したのか・・・いろいろな疑問をきちっと解決しなければならなくなるでしょう。
客観性を重視するドキュメンタリーの手法により、ある程度の疑問を解決する糸口は見せつつも、絶対に分かるはずがない解答は、見る者の感性にその解決を任せたのは映画的に成功だと思います。
しかし、最後にゆみ子がある程度の心の開放を得ただろうという「救い」を見せることで、後味の悪さが無くなり、しずかに見終えることができたことも好印象でした。