多くの劇団がある中で、TEAM NACSが今のような「最もチケットが取れない」と言われるような人気を得るようになった理由を知るためには、やはり彼らのスタート・ダッシュを理解しておくことが必要です・・・というわけで、簡単に彼らのアーリー・ヒストリーをまとめてみました。
森崎博之。1971年、北海道のほぼ中央、上川郡東川町で生まれ、旭川西高校をへて1990年に北海道学園大学に入学し演劇研究会に所属しました。1993年から稲田博主宰の劇団イナダ組と鈴木貴之主宰のOOPARTSに参加。なお、イナダ組はOOPARTSから独立した劇団です。
安田顕。1973年、室蘭市に生まれ、室蘭栄高校をへて1992年に北海道学園大学に入学。当初ジャズ研に在籍するも、レベルが高すぎたため退部。12月に演劇研究会に所属します。1993年に辞める森崎に代わってOOPARTSに参加。
戸次重幸。1973年、札幌市手稲区生まれ、本名は佐藤重幸。手稲高校をへて、1浪して1993年に北海道学園大学に入学し演劇研究会に入会。1994年にイナダ組参加。
大泉洋。1973年、江別市生まれ。札幌藻岩高校卒業後、2浪して1994年に北海道学園大学に入学し演劇研究会に入会。1995年にイナダ組参加。
音尾琢真。1976年、旭川市で生まれ、旭川西高校(森崎の後輩)をへて1994年に現役で北海道学園大学に入学し演劇研究会に入会しました。なお、高校では新体操部部長を務めました。彼も1995年にイナダ組に参加しました。
1995年10月、大泉がOOPARTSの紹介で北海道テレビの深夜番組「モザイクな夜V3」に「二代目元気くん」として出演し、話題になります。この時、芸能活動のために鈴井貴之が1992年に設立したCreative Office Cueに安田と伴に所属しました。またこの頃、「ガメラ2 レギオン襲来(大映/東宝)」に安田、大泉が端役で映画初出演をはたしています(鈴井も出演)。
森崎と安田が1996年3月に大学卒業が決まりますが、ちょうどその時期に予定されていたイナダ組の公演が中止となったため、その会場を利用していつもつるんで遊んでいた5人はTEAM NACSを結成し旗揚げと同時に解散公演を行うことにしました。それが、今では幻の第1回公演とされる「LETTER〜変わり続けるベクトルの障壁〜」でした。
森崎作品としては演劇研究会の公演として「CHAIR〜立ち続けることは苦しいから〜」、「DOOR〜在り続けるためのプロセス〜」というタイトルがあるので3作目にカウントされます。森崎作品のタイトルは、「~R」で終わる英単語と「~続ける(続けた)~」という副題が付くというのはスタートからでした。
森崎と安田が抜けて、当然チームは解散となりますが、大泉は1996年10月に北海道テレビでスタートした「水曜どうでしょう」のレギュラーとして鈴井と共に出演することになります。鈴井と大泉の二人が出たとこ勝負で無理矢理に旅をするだけの番組でしたが、大泉のトーク力が爆発し人気番組となっていきました。
東京で就職した森崎と安田は、芝居をやりたい気持ちが捨てきれず10ヵ月で二人とも退職し、北海道に戻ってきます。そして戸次、大泉、音尾に連絡を取りチームを再結成し、1997年8月に復活公園と銘打って「RECOVER〜描き続けるもう一つの結論」を成功させました。さらに1998年3月には大泉の卒業を機に、プロの劇団としてやっていく決意をもって卒業公演「FEVER〜眺め続けた展望の行方」を上演します。
大泉のテレビ露出により知名度がどんどん上がったことが功を奏し、舞台は回を追うごとに集客数が増加。1998年4月のデヴュー公演「再演DOOR〜在り続けるためのプロセス〜」で収益が黒字となります。1999年3月に戸次・音尾が大学を卒業し、冒険公演「ESCAPER〜探し続けていた場所」を成功させ、森崎・戸次・音尾もCreative Office Cue所属となり、名実ともに職業俳優ユニットとしてスタートしたのです。
少ない北海道テレビ独自のバラエティ枠は、鈴井らの企画がしばしば登場し、タレントとしてTEAM NACSのメンバーが起用される機会が増えたことで「北のSMAP」と呼ばれるようにもなり、人気を不動のものにしていったのでした。