2019年10月31日木曜日
第27回 田園都市リウマチフォーラム
2010年秋から始まったこの会は、今回で27回目。
平成29年4月に、聖マリアンナ医科大学のリウマチ内科教授に着任された川畑教授は、就任以来2年半がたち、この間神奈川でのリウマチ学推進に積極的に関わってきました。
川畑先生の構想の下、聖マリアンナ医科大学病院に関係する各科が協力して診療にあたるセンターが設置され、ことになってほぼフル稼働できる状態になったそうです。
当会にて講演していただくは2回目。
今回、世話人の中から出たテーマは「血液検査」です。リウマチ診療では、当然のことながら血液検査は必須で、診断のためにとどまらず、治療方法の選定、治療効果の判定、合併症・副作用のチェックなど、目的は多岐にわたります。
その中から、検査値の考え方として、誤解しやすい物、実際に誤解されているものなどを整理して解説していただきました。
代表的な物としては、「リウマチ因子が陽性なら関節リウマチである」というのがあります。さすがにリウマチ診療を専門にしていると、リウマチ因子は診断上絶対的な物ではないことは重々承知しています。
しかし、非専門医の先生の中には、リウマチ因子だけで診断を確定してしまう傾向は今でもあることは否定できません。あらためて注意を喚起することは大切です。
その他にも、似たような項目はいろいろありますし、検査結果によっては鑑別しなければならない「ほとんど知らない病気」、「新しい病気の概念」などにも言及していただきました。
この会が対象としている地域としては、聖マリアンナ医科大学は最もリウマチ診療の専門性の高い大学病院ですので、川畑先生には今後も会に積極的に関与していただければ幸いです。
2019年10月30日水曜日
鱗雲の真下
天高く馬肥える秋・・・というくらいで、秋空は雲が高い。
秋らしい雲の代表的な形は、巻積雲(けんせきうん)。普通は、うろこ雲とかいわし雲と呼びます。もこもこ、ふわふわした感じがひろく広がっている感じ。
ふと、遠くの空を見たら鱗雲が広がっていて、秋だなぁとか思ったりしました。
鱗はどこまで広がっているのかなと、ずっと視線を手前まで移してみたら、すぐ真上まで連続していました。
近くなればなるほど、うろこが繋がった様に見えて、縞々模様になっていました。
ソーセージ? 下手くそなうどん?
なんにしても、食べれるものから離れられない食欲の秋ということでしょぅか。
2019年10月29日火曜日
八千草薫さん逝く
「昭和の大女優」みたいな表現をすぐにしてしまいますが、八千草さんは平成でもコンスタントに活躍を続けていたわけで、いつも年齢に応じた可愛らしいほのぼのとした味を出し続けていました。
元々、宝塚出身ですから不思議ではないのですが、自分が持っているDVDで八千草さんが主役をしているのは、なんと「蝶々夫人」です。言わずと知れたプッチーニのオペラ。
長崎が舞台で、令嬢である蝶々さんとアメリカ海軍士官のピンカートンとの恋愛悲劇ですが、これをイタリア映画として作成した際に蝶々さんを演じたのが八千草さんで、さすがに歌唱はプロのソプラノ歌手が行った60数年前の映像。
オペラ映画としては、それほど名作とはいえないかもしれませんが、外国の歌手が演じる「蝶々夫人」でいつも感じる強烈な違和感がなく、素直に物語を楽しめるものです。
自分は特別に好きな女優さんというわけではありませんでしたが、実は、父親がファンだった・・・ということで、出演されているといつも気になる存在。このオペラ映画を代表作とは呼ぶことはありませんが、「この頃が父親の好きな八千草さん」だったのかなという感慨も持ちます。
合掌
2019年10月28日月曜日
Leonard Bernstein WPO / Mahler Symphony #9 (1971)
アバドだけでも、CDでベルリンフィル、ウィーンフィル、ビデオでグスタフ・マーラー・ユーゲントとルツェルンの4種類。
コンセルトヘボウのハイティンク、シュトゥッガルトのノリトン、サイトウキネンの小澤征爾などのビデオが手軽に観れちゃうなんてすごい時代です。
そして、マーラーといえばバーンスタイン。CDは4種類。他にウィーンフィルを引き連れてベルリンフィル本拠地に乗り込んだ公式ビデオがあります。さらに1985年のイスラエルフィルを引き連れた日本公演のビデオ(隠し撮り?)も見れます。
録音数の割に、マーラー通の方々からあまりアバドは高い評価を受けていないように思うのですが、たぶんそれは他の指揮者がいろいろな思い入れたっぷりに「自分の音はこれだ」と言わんばかりの演奏をするからじゃないかと。
だんだんとわかってきたんですが、マーラーは作曲家であると同時に優れた指揮者でした。マーラー自身が、指揮者が曲をいろいろと歪曲して好き勝手に演奏することを知らないはずがない。
ですから、自分の楽曲を大切にするために、ものすごく細かいところまで楽譜に書き込んで演奏方法を指定していました。ただし、第9番は自ら初演する前に亡くなっているので、実際に演奏しての推敲が含まれていない。つまり演奏者が付け入るスキが残されているかもしれません。
アバドのマーラーは「おとなしい」と言われ、オケがやりたいようにやっているみたいな思われるわけなんですが、はっきりと「死」をテーマにしている楽曲であることを考えると、アバドの演奏は奇をてらうことなく、むしろマーラーの意向を最大限素直に表現しているように思います。
とは言っても、こういうことは結局人それぞれ好き嫌いの話で、主観的なものですから、技術的な部分は別として、誰がなんと言おうと自分の感覚にマッチすればそれが名演・名盤ということで落ち着く話です。
若者だけのグスタフ・マーラー・ユーゲントは、さすがにアバドのこどもたちで、只物ではない。26歳以下のメンバーだけとは思えないくらいの実力で、アバドに必死に食らいついていく感じはさすがです。
ただし、続けてルツェルンを聴くと、さすがに超がつく実力派集団です。演奏能力は圧倒的に優っているのが、素人の耳にもわかります。特に最終数分間、他の指揮者の演奏と比べてもこれ以上は無理と言えるくらいの最弱音での安定感は圧倒的です。
そして、バーンスタインにも触れないわけにはいきません。70年代のバーンスタインの全交響曲の映像は、クラシック音楽の世界遺産です。ただし、アバドのマーラーに慣れてしまうと、ここで聴かれる音楽は「バーンスタイン節」なんでしょうね。元気はつらつ、ファイト一発みたいなマーラーで、主たるオケであるウィーンフィルはついていけていないところもあるように思いました。
第9番は、特に敵地に乗り込んでみたいところで、硬さがあることは否めない。何かお客さんもカラヤンに慣れていて、バーンスタインの指揮ぶりには面食らっている感じがします。それでも、バーンスタイン本人はのりのり。第4楽章途中からは、譜面をめくることもしなくなって、音に委ねているのか次から次へと自然と体が動いている感じ。
これは編集上の問題ですが、曲が終わると途端にばっさり映像が終了してしまうのは残念。アバドのまるで自らの「死を迎えた」かのような長い余韻は、この曲のエピローグとして重要な要素に含まれていると思います。
作曲家であり指揮者、ニューヨークフィルとウィーンフィルをまたにかけたユダヤ人という共通点が多いマーラーとバーンスタイン。バーンスタインは、マーラーの曲を「自分が作ったみたいに思う」と言っていたくらい思い入れがある。
当然、マーラーの演奏の在り方として一つの時代を作った名演の数々によって、バーンスタインは忘れてはいけない存在であることは間違いありません。そうであるなら、アバドのマーラーは余計な衣ははぎ取ってマーラーの考えを端的に表現したものと言える名演だろうという気がします。
当然、マーラーの演奏の在り方として一つの時代を作った名演の数々によって、バーンスタインは忘れてはいけない存在であることは間違いありません。そうであるなら、アバドのマーラーは余計な衣ははぎ取ってマーラーの考えを端的に表現したものと言える名演だろうという気がします。
2019年10月27日日曜日
アバドのマーラー録音をコンプリートする 2
これらのうち、初期の「3つの歌曲」、「若き日の歌 (Lieder und Gesänge aus der Jugendzeit、全14曲)」についてはピアノ伴奏となっています。
クラウディオ・アバドでマーラーをコンプリートしようと思うと、当然はずれてしまうのはしかたがない。もっとも、バーンスタインのように自らピアノを弾いて伴奏してしまうケースもあります。
それら以外は、オーケストラ伴奏譜とピアノ伴奏譜の両方をマーラー自身が、ほぼ同時進行で作っている。
カンタータ「嘆きの歌 (Das klagende Lied)」
さすらう若人の歌 (Lieder eines fahrenden Gesellen、全4曲)
少年の魔法の角笛 (Des Knaben Wunderhorn、全12曲)
リュッケルトの詩による5つの歌曲 (Rückert-Lieder、全5曲)
亡き子をしのぶ歌 (Kindertotenlieder、全5曲)
交響曲「大地の歌 (Das Lieder von der Erde、全6曲)」
アバドは「嘆きの歌」と「さすらう若人の歌」は、現在までは登場していません。「少年の魔法の角笛」はベルリンフィル、フォン・オッター、クヴァストホフで収録しました。「大地の歌」はベルリンフィルのデジタル・コンサートで、フォン・オッター、カウフマンで正規配信。
リュッケルト歌曲集は、ルツェルン音楽祭で2009年に交響曲第4番と共に演奏され、映像が遺されました。独唱はマグダレーナ・コジェナー(サイモン・ラトルの奥さん)でした。音声だけだと悪くはないのですが、映像だとコジェナーの身振り・手振り・表情がやや大袈裟な感じで、ちょっとなと思ってしまう。
CDとしては、1981年にシカゴ交響楽団と交響曲第1番収録の際に、ハンナ・シュバルツの独唱で収録し、後に交響曲第5番、あるいは第6番のCDに追加されましたが、現在入手可能なボックスからは除外されています。
ただ残念なのは、現代音楽作曲家のノーノの曲とのカップリングで、メインのノーノの方がなんだかよくわからないせいか、アルバムとしてぱっとしない。
さて、アバドのマーラー作品の落穂拾い・・・隅々まで探して見ると、後は残ったのは交響曲第10番だけということになりました。
この曲は第1楽章のみの未完成曲で、後にマーラーが遺したスケッチを元に補筆完成版がありますが(クック版が有名)、そもそも第1楽章だってマーラー自身が完成したとは考えていたわけではないでしょう。
アバドは、1985年にウィーンフィルで第1楽章のみを収録しています。また、2011年5月になって、ベルリンフィルとの演奏が「大地の歌」と共に配信されました。
そして同じ2011年8月に、ルツェルン音楽祭のオープニングでも取り上げたものが配信でのみ公開されています。これは、同年に発生した日本の東日本大震災の鎮魂の目的での演奏でした。
2019年10月26日土曜日
Claudio Abbado BPO / Mahler Symphony #8 (1994)
マーラー自身は、勝手に副題を初演興行主につけれら嫌がったらしいのですが、実際にマーラー自ら初演した時に用意された人員は1000人だったらしい。その規模の大きさから、他の曲に比べてなかなか実演されることは少ない。
そのせいか、アバドは、他が2~3回の正規録音があるのに第8番だけは1回しか演奏を残していない。ルツェルン音楽祭のチクルスでも、この曲だけは演奏されていません。
ですから、アバドでマーラーを聴きこむとなると、この1994年2月にベルンフィルの本拠地で収録されたアルバムが唯一の選択となります。
アルバムジャケットの写真を見ると、ステージ後方客席にどんどる合唱隊は、中央に児童合唱団、その両翼に混声合唱団が配置され、おそらく全部で200人程度。オーケストラも200人はいそうで、ベルリンフィルのメンバー総出状態。
手前に独唱者8名とアバドが立っているので、全部合わせて多く見ても500人はいないと思いますが、それでも通常のクラシックの演奏会からすると数倍の人数です。また、客席も人で埋まっているようなのでライブ収録だろうと思います。
独唱者は、この時期アバドの常連が並びます。ソプラノは、シェリル・ステューダー、シルヴィア・マクネアー、アンドレア・ロストの3人。アルトはアンネ・ゾフィー・フォン・オッターとローゼマリー・ラング。テナーがペーター・ザイフェルト。バリトンはブリン・ターフェル、そしてバスがヤン=ヘンドリク・ローテリング。
マーラー本人が「交響曲」と呼んでいるので口をはさむところではないのですが、ベートーヴェン以来形成された交響曲の概念を壊しまくったマーラーが、行きつくところまで行ってしまった感じで、通常の交響曲のイメージではとても説明できない。
何しろ第1部30分、第2部50分の2楽章構成だし、冒頭いきなりオルガンの和音とともに大合唱が炸裂する。聴いていて歌詞の内容がよくわからない立場としては、ベートーヴェンの第九の終楽章の声楽が登場する部分がずっと続ているような印象を受けます。合唱の内容は、キリスト復活後の聖霊の降臨を讃えるもの。
第2部に入ると、音楽は落ち着きを取り戻し、ゲーテの「ファウスト」終章を歌い継いでいきます。「ファウスト」は世界文化遺産級の名著とされていますが、何しろ長大で難解。
ここで歌われるのは、最後に悪い事をたくさんして死んだ後、悪魔メフィストフェレスに魂を持っていかれるところを、辛い思いをさせた妻グレートヒェンの霊と聖母マリアに導かれ天に昇っていくという最後の場面。
アバド贔屓で聴いているせいかもしれませんが、最後まで緊張感が持続したいい演奏だと思います。将来、この時の映像が出てくることがあれば最高なんですけどね。
第2部に入ると、音楽は落ち着きを取り戻し、ゲーテの「ファウスト」終章を歌い継いでいきます。「ファウスト」は世界文化遺産級の名著とされていますが、何しろ長大で難解。
ここで歌われるのは、最後に悪い事をたくさんして死んだ後、悪魔メフィストフェレスに魂を持っていかれるところを、辛い思いをさせた妻グレートヒェンの霊と聖母マリアに導かれ天に昇っていくという最後の場面。
アバド贔屓で聴いているせいかもしれませんが、最後まで緊張感が持続したいい演奏だと思います。将来、この時の映像が出てくることがあれば最高なんですけどね。
2019年10月25日金曜日
シャク
あまり見たことが無い植物をみつけました。
最近は、スマホで撮影した写真をアップロードして、けっこうな精度でそれが何か教えてくれるアプリがあったりします。
パソコンではどうしたら? ということなんですが、これが意外と簡単で、Googleのスタート・ページの右上に「画像」と書いてあるところをクリックして、「Google画像検索」に移動します。
そしたら、画像を画面にドラッグ&ドロップするだけ。膨大なGoogleのキャッシュから似た画像を探し出して、リンク先を提示してくれます。う~ん、確かに便利。
そこで、上の写真を使って調べてみました。
なるほど、これは「シャク」と呼ばれている。あとはWikipediaに移動して確認。解決です。
シャクはセリ科シャク属の多年草で、別名、ヤマニンジン。根を食用にできるようですが、ドクニンジンと間違えやすいので注意が必要らしい。
世の中、便利になったものです。
2019年10月24日木曜日
Claudio Abbado BPO / Mahler "Des Kunaben Wunderhorn" (1999)
その中でも、「少年と魔法の角笛」を歌詞とした一連の歌曲が有名であり、自身の交響曲への転用もしばしば行われたことから、マーラー鑑賞上重要な位置を占めています。
少年と魔法の角笛」は、19世紀初頭に出版されたドイツの民用歌謡の詩集のタイトルで、「マザーグース」のドイツ版みたいなもの。この詩集そのもののディスカッションは他に譲るとして、この場ではドイツ・ロマン派以降の作曲家に作曲意欲を沸かせた素材としてだけしておきます。
歌曲集としての成り立ちは複雑で、オーケストラ版が基本ですが、ビアノ伴奏版も作ったり、削除されたり追加されたりいろいろな変更があって、
歩哨の夜の歌
むだな骨折り
不幸な時の慰め
この歌を作ったのは誰?
この世の生
魚に説教するパドヴァの聖アントニウス
ラインの伝説
塔の中で迫害されている者の歌
美しいラッパが鳴りひびくところ
高い知性を賛える
原光(交響曲第2番の4楽章に転用)
3人の天使が歌った(交響曲第3番の5楽章、合唱から独唱への編曲)
天上の生(交響曲第4番の4楽章)
死せる鼓手 (後に追加)
少年鼓手 (後に追加)
という全15曲から、交響曲に転用された3曲を除く12曲の歌曲集として落ち着いたというのが現状です。しかし、歌曲集「若き日の歌」では第1集の5曲を除いて、第2集(4曲)と第3集(5曲)は、少年と魔法の角笛」の歌詞が使用されています。
また、別の歌曲集である「さすらう若人の歌 (全4曲)」は自作詩となっていますが、「少年と魔法の角笛」に強く影響されていることが指摘されています。
アバドは、コンサートでマーラー交響曲を取り上げる際には、時々歌曲も併せて演奏したようですが、正規録音として残されて物はあまり無い。まとまった歌曲集としては、この「少年と魔法の角笛」が唯一のアルバムです。
演奏はベルリンフィル。独唱は、アンネ・ゾフィー・オッター (Ms)とトマス・クヴァストホフ (Br)の二人の名手。
死んだ鼓手、ラインの伝説、不幸な時のなぐさめ、無駄な骨折り、番兵の夜の歌、この世の営み、塔の中の囚人の歌、この歌を作ったのは誰?、魚に説教するパドヴァの聖アントニウス、高き知性への賛歌、トランペットが美しく鳴り響くところ、少年鼓手、原光
という全13曲の構成で、後から追加された2曲でオリジナル10曲を挟んで、交響曲第2番第4楽章「原光」を最後に付け加えた物。だいたいオッターとクヴァストホフが交互に登場する感じで飽きさせません。オッターの登場する第2番が他には無いので、貴重な録音です。
2019年10月23日水曜日
Claudio Abbado BPO / Mahler "Das Lied von der Erde" (2011)
![]() |
https://www.digitalconcerthall.com/ja/concert/2922 |
ルツェルン音楽祭におけるクラウディオ・アバドの映像をいろいろと観ていると、いろいろと気がつく、あるいは感じることがありました。
ベルリンフィルという自他ともに認める「世界一」の楽団の監督という責任、あるいは長い事「カラヤン色」に染まった楽団から、自分の色を出すことに苦労したんだろうということは容易に想像できます。
アバド就任時のドキュメント、あるいはラトル退任記念のドキュメントがあるんで見ていると、はっきりと言葉にはしにくいのですが、なんとなくベルリンフィルに抱いていたもやもやみたいなものが少しわかってきたような気がします。
ベルリンフィルの楽団メンバーは、自主運営の原則から当然かもしれませんが、指揮者を「選んであげた」という意識が高い。
カラヤンは帝王として振る舞い、最後は楽団と衝突したことはよく知られたことですが、楽団もまた帝王になっている。同一組織内に帝王は二人いりません。
それは、古くは戦後にベルリンフィル再興に尽力したチェリビダッケとの確執もあり、カラヤンによって作られたというよりは、メンバーが変わっても元々からの体質なのかもしれません。
アバドにしても、ラトルにしても、ベルリンフィル以前の活躍に比べて、ベルンフィルでの音楽の評価が必ずしも高くないように思うのは、この辺りが関係しているように思います。
まぁ、もともとオーケストラ、それもカラヤン & ベルリンフィルの仰々しい感じが好きでなかった自分が持つ感じですから、マイナスの印象から感じているだけなのかもしれませんけど・・・
でもって、アバドの「大地の歌」です。
「大地の歌」は、マーラーの交響曲としては第9番になるはずのものでした。交響曲というタイトルはついていますが、番号はついていません。
多くの作曲家が、交響曲第9番が最後になったという、「9」にまつわるジンクスを忌み嫌ったからというもっともらしい理由がよく言われています。
ただ、交響曲のフォーマットをいろいろと壊してきたマーラーをもってしても、基本的に6楽章性の交響曲というよりは、オーケストラ伴奏を伴う大規模な6曲からなる連作歌曲集という色合いが強いことが、交響曲とするにはためらわれたというのが真意ではないかと思いますけど。
歌詞は中国漢詩をヒントにしたものと言われていて、この曲の最後の一節、「永遠に」を繰り返すメロディが、交響曲第9番の出だしに引用されつながっていると言われています。
いろいろなパターンの二人の歌手の組み合わせで、交互に歌うのが一般的。たくさんの名盤がありますが、中にはピアノ伴奏だけのものや、カウフマンのように一人で歌い切ってしまうものもあります。
アバドは正規に録音したCDはありません。幸い、2011年に行った演奏会の模様がベルリンフィルのサイトで公式に配信されています。当然、オケはベルリンフィル。コンマスはわれらが樫本他大進。
歌手は、ヨナス・カウフマンと大好きなアンナ・ソフィー・フォン・オッター。この二人が素晴らしい。さすがに現代を代表する歌手です。演奏も悪いわけがない。で、アバドは・・・というと、最初からそう思っているわけではありませんが、ルツェルンの時ほど嬉しそうじゃない。
逆に映像無しで、音だけで聴いた方がよかったのかもという感じがしたのは自分だけでしょうか。
2019年10月22日火曜日
即位礼正殿の儀
HP「首相官邸」より
本日、令和元年10月22日は、皇居において即位礼正殿の儀が執り行われます。
そのため、今年に限り本日は祝日となり、クリニックも休診です。
もう、言わずと知れた「即位礼正殿の儀」は、イギリスなどの王室の戴冠式と同じで、新天皇が即位したことを内外に公的に示すための儀式です。
毎年11月23日の勤労感謝の日として祝日になっているのは、もともと天皇がその年の収穫を感謝するための新嘗祭が起源。特に天皇が代替わりした時に行われる初めての新嘗祭を大嘗祭と呼び、即位礼と共に新天皇の即位に関わる二大イベントです。
いずれも、一般国民が参加できるわけではありませんが、公金を使うのはどうかとか野暮な議論をする方もいますが、日本という国の根幹に関わる行事なんですから、素直にお祝いさせていただければいいんじゃないでしょうか。
ただ、残念なことに先の台風の大きな被害を考慮してパレードは延期、そして今日は朝からずっと雨模様。
でも、後は天気が良くなるしかないとポジティブに考えて、自分と同世代の天皇の即位を喜びたいと思います。
2019年10月21日月曜日
アバドのルツェルンの記録
アバドにとっては、ベルリンフィル時代より、自由に好きなことを好きなように楽しむ充実した期間でした。その代表的な仕事の一つが、アバドを敬愛して集まってくる仲間とのルツェルンでのマーラーだったということ。
もともとレパートリーには事欠かない人ですが、少なくともルツェルンでの11年間だけでも、様々な音楽を指揮しています。
2003年8月 ワグナー、ドビッシー、バッハ、マーラー#2
2004年8月 R.シュトラウス、ワグナー、ベートーヴェン(#4 ポリーニ)、マーラー#5、ヒンデミット、ベートーヴェン#1
2005年8月 ベートーヴェン(#3ブレンデル)、ブルックナー#7、ベルグ、シューベルト、マーラー#7、ノーノ、ワグナー
2005年10月ローマ ベートーヴェン(#3アルゲリッチ)、ブルックナー#7、シューマン(ポリーニ)、マーラー#7、ノーノ
2006年8月 モーツァルト、マーラー#6、マーチン、ベルリオーズ、ヴェルディ、ブラームス(#2ポリーニ)、ブルックナー#4
2006年10月東京 モーツァルト、マーラー#6、ブラームス(#2ポリーニ)、ブルックナー#4
2007年8月 ベートーヴェン#9、マーラー#3
2008年8月 ドビッシー、ラベル、ベルリオーズ、ラフマニノフ(#2グリモー)、チャイコフスキー、ストラヴィンスキー、ベートーヴェン(#4 ポリーニ)
2009年8月 プロコフィエフ(#3ワン)、マーラー#1、マーラー#4、リュッケルト歌曲集、モーツァルト
2010年8月 フェディリオ、マーラー#9、
2011年8月 ブラームス(#1ルプー)、ワグナー、マーラー#10、モーツァルト#35、ブルックナー#5
2011年10月欧州ツアー モーツァルト#35、ブルックナー#5、シューマン(内田)、
2012年8月 エグモント、モーツァルト・レクイエム、ベートーヴェン(#3ルプー)、ブルックナー#1
2012年9月欧州ツアー モーツァルト(#17ホリーニ、ピレス)、ブルックナー#1
2013年8月 ブラームス、シェーンベルグ、ベートーヴェン#3、シューベルト#7、ブルックナー#9
2013年8月26日の最後のコンサートの後、10月に日本ツアーが組まれていましたが、アバドの体調が悪くキャンセルされました。アバドが生涯最後に振ったのはブルックナーの最後の未完の交響曲第9番だったのです。
この最後の演奏は、CDとしてドイツグラモフォンからすでに発売されています。好き嫌いにかかわらず、ある種の感慨を持たずに聴くことはできません。
それはさておき・・・ブルックナーです。
ベートーヴェンで結晶化した交響曲というジャンルを行く着くところまで高めたのがマーラーであり、彼を含めて後期ロマン派というくくりの中で活躍した作曲家というと忘れてならないのがブルックー。
マーラーよりは少し早い時代で、どちらかというとブラームスがライバル。基本的にいくつかの宗教曲と9つの交響曲しか作らなかった。そして、長大な曲が多くて、もともとマーラーが苦手だった自分は、当然ブルックナーも苦手です。
ルツェルンのアバドを集めていたら、当たり前のようにブルックナーも向こうから寄ってきた。上のリストを見ると、ブルックナーの交響曲については#1、#4、#5、#7、#9の5曲が演奏されています。
実は、アバドのブルックナーのレパートリーとしては、過去に主としてウィーンフィルと録音していますが、#2、#3、#6、#8は演奏していません。どこかのライブでやっているのかもしれませんが、ルツェルンでのアバドは自分のブルックナーはすべて再演しています。
毒を食ったら皿まで・・・みたいな話で、好きな人には申し訳ありませんが、こうなったら行くしかありませんね。
2019年10月20日日曜日
Claudio Abbado LFO / Mahler Symphony #9 (2010)
アバドのマーラーでは、悔やみきれないのはルツェルンでの8番が抜けていること。多数の音声・映像が残されているにもかかわらず、第8番についてはベルリンフィルとの1994年のCDしかない。時期的には映像収録もあって当然のように思うのですが、フィルハーモニーのどこかに眠っていませんかね。
やはり大人数を要するため、おいそれと簡単に企画できないのでしょうか。それとも、アバド自身があまり気が向かなかったのでしょうか。ビデオの1~7番と9番では制作・発売元が変わっているので、何かスポンサーの異動などの影響もあるのかもしれません。
それにしても・・・この交響曲第9番、にわかマーラー・ファンにはかなりハードルが高い。
古典的な匂いを残していた初期の作品から、遂にベートーヴェンの呪縛を解き放ち独自の世界を作り上げたマーラーは、第8番で「交響曲」という形態の音楽の究極の高みにまで上り詰めた感があります。
となると、その次は・・・? 普通なら、その究極路線の延長線で熟練の技を研ぎ澄ましていくかと。ところが、マーラーは完全に独自の世界に入って、「マーラー」というジャンルの音楽に突入していくのです。
当時、新ヴィーン派と呼ばれるシェーンベルグ、ヴェーベルン、ベルクらが台頭してきて、現代音楽に通じる無調性音楽が注目されていました。マーラーも彼らの音楽を許容し、一定の理解を示していたようです。しかし、マーラーは音楽の自由を求めていましたが、自らの音楽では楽典的な枠組みの中で美的な追及に向かったようです。
実はこのあたりはマイルス・デイビスにも似たようなところがあって、オーネット・コールマンの出現によりジャズがフリーに向かった時、マイルスは一定の形式を維持しながら、即興演奏の自由度を高める方向に向かいました。
その結果が結実して、今では大傑作として誰もが認めるのが「Bitches Brew」です。しかし、自分も初めて聴いたときは、何だこの音楽は? という感じで、だらだらもやもと続く音の洪水のような印象だったんです。しかし、何度も何度も聴いているうちに、マイルス・デイビスという音楽が見えてきたんです。
一般的な解釈として、この第9番は「死んでいく音楽」であり、死を目前にした人間が人生を振り返り、辛い時、哀しい時、苦しい時を乗り越えて、楽しい時、そして戦う時を回顧するかのような流れ。ただし、キャッチャーな主題を見つけにくいため、悪く言えば俳優を邪魔しない「ドラマのBGM」が、時には無調性ぎりぎりで延々と続く感じ。
最後の第4楽章は、まさに音楽そのものが「死んでいく」わけで、音は次第に途切れ途切れになり、もう普通に聴いていたんでは聞こえないくらい弱々しくなっていきます。まさに少しずつ心臓の拍動が間延びしていき、留まったかともうとときどき収縮する。そして、遂には待っていても次の鼓動が起きなくて、臨終を迎えたことを認識する・・・そんな終わり方。
2回や3回では、とうてい理解できません。少なくとも、これを単純に交響曲と呼んではいけないだろうということだけはわかる。随所にマーラーらしさがある・・・ではなく、すべてがマーラーそのもの、これが「マーラー」という音楽なんだろうということ。
アバドは2004年にも、自ら若手育成のために創設したグスタフ・マーラー・ユーゲント管弦楽団との共演でビデオが残っています。どちらも、第4楽章の途中から舞台・会場の照明が落ちていき、譜面台の小さな灯りだけが残るという演出をしています。
クラシック音楽の世界では、しばしばこのような作為的な雰囲気作りの演出は否定的な見方をされます。しかし、独自のカラーを打ち出したマーラーは、普通使われないような楽器を多数登場させたり、演奏者に立ち上がることを指示したり、視覚的にも総合芸術を志向していました。
ですから、当時可能ならマーラー自身が照明効果を楽譜に細かく指示していたとしても不思議はありません。できれば譜面台用のライトも消してほしいくらいです。
ルツェルンでは、最後の音が消えてから、1分経過してからオケの面々が楽器を下ろし始めます。大変優れた聴衆も、物音一つ立てずに、「死んだ」音楽の余韻に浸ります。アバドが緊張を解くのは、何と2分15秒立った時で、鳴りやまぬ万雷の拍手が沸き起こるのでした。
2019年10月19日土曜日
Yuja Wang + Claudio Abbado LFO / Prokofiev Piano Concerto #3 (2009)
ルツェルン音楽祭では、アバドはもちろんマーラーだけ演奏していたわけではありません。ソロイストとしては、ピアノと歌手をしばしば招いています。
ピアノに関して、ビデオとして発売されているのは、ブレンデル、ポリーニという旧知の仲間と共に演奏したベートーヴェンの協奏曲。グリモーとのラフマニノフの2番は、グリモーのビデオが少ないので貴重。アルゲリッチとのモーツァルトはCDで発売されました。
そして、マーラー1番とカップリングで収録されたのは、ユジャ・ワンで、これがまたなかなか優れものです。
演目はプロコフィエフの協奏曲第3番で、ユジャにとっては得意曲だろうと思います。
ユジャにとっては、2013年に発売したアバド指揮マーラー室内管弦楽団とのラフマニノフ第2番があり、これが実質的に人気を決定づけたともいえる重要なアルバムになりました。録音時期は2011年で、2009年のルツェルンでの共演の延長線上に企画されたものだろうと想像できます。
ルツェルンの時点では、ユジャは新進気鋭の若手ピアニストですが、アバドをはじめそうそうたるオケの面々に気後れすることなく、ダイナミックな演奏で聴衆を魅了しました。
今でこそこのくらいの演奏は、ユジャにとっては朝飯前だろうと思ってしまいますが、何しろメジャーデヴューの年の演奏とは思えないなかなかの名演です。強力な左手の打鍵力がいかんなく発揮され、この難曲を見事に弾き切っています。
アバドは絶えずユジャを見ながら、うまくオケをコントロールしている感じ。新人をオケに合わさせるのではなく、オケをピアノに合わせることでユジャが自由に弾けるように気を遣っているところが、孫を心配するおじいちゃん風情。
ピアノとオケの掛け合いが続く変奏曲楽章の第2楽章は、両者の実力如何なく発揮されています。はにかみ気味のユジャの笑顔も◎です。
2019年10月18日金曜日
Claudio Abbado LFO / Mahler Symphony #1 (2009)
きょ、にアクセントを持ってくるとジャイアンツ。じん、を持ち上げると「進撃の巨人」のような、でっかい人のことになる。この場合は、当然ながら後者。
アバドのルツェルンでのマーラー・チクルスは、2009年には第4番に続いて交響曲第1番も演奏しました。演奏する側からすると、演目がマーラーと決まると、かなりのストレスらしい。それを同一期間に2曲というのですからさぞかし大変だっただろうと。
マーラーの交響曲には副題がついていることが多い。例えば第8番は「千人の交響曲」と呼ばれますが、実際マーラーが指揮をした初演の時にオーケストラと合唱で千人を必要としたために興業側がつけたもの。
実際に、マーラーが正式に副題をつけたというのは無い。この第1番も「巨人」と呼ばれますが、いろいろ改訂している中で、一時「巨人」と呼んだらしいのですが、最終稿では削除されています。
何しろまだ青年指揮者の最初の交響曲ですから、いろいろと試行錯誤はあって当然で、そもそも最初は「交響詩」として発表し、騒音をまき散らす音楽として不評を買っています。
その後第2楽章は削除されていますが、「花の章(Blumine)」として今では独立して演奏されることがあります。また第1楽章の伸びやかな主題は「さすらう若人の歌」の第2曲をそっくり転用しています。このあたりは巨人というより、さわやかな牧場かどこかのカッコーの鳴き声がする朝の様子を想像するような感じ。
後半に行くにしたがって、多少は「ここが巨人かな?」みたいなところはあるんですが、最終第4楽章が爆発的に始まるあたりで最高潮に達します。もうアバドは大丈夫かと心配したくなるくらい腕を振り回します。最後は勝利?の喜び溢れる雰囲気で終了。
オーケストラの面々も、脚を踏み鳴らしてアバドを讃えるところが嬉しいじゃないですか。いゃ~、いつもながら、アバドのルツェルンでマーラーにはまってよかったというところでした。
ちなみにこのディスクには、これまたお気に入りのユジャ・ワンでプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番も入っています。これがまたいいんですね。小柄なユジャのどこからこのパワーがでてくるのかという、強靭な打鍵力は見所です。
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