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2019年10月20日日曜日

Claudio Abbado LFO / Mahler Symphony #9 (2010)

マーラーの完成された交響曲としては、第9番が最後。ルツェルン音楽祭でのアバドのマーラー・チクルスは、2003年の「復活」に始まり、7番まで行って次は8番かと思ったら、9番が来ました。

アバドのマーラーでは、悔やみきれないのはルツェルンでの8番が抜けていること。多数の音声・映像が残されているにもかかわらず、第8番についてはベルリンフィルとの1994年のCDしかない。時期的には映像収録もあって当然のように思うのですが、フィルハーモニーのどこかに眠っていませんかね。

やはり大人数を要するため、おいそれと簡単に企画できないのでしょうか。それとも、アバド自身があまり気が向かなかったのでしょうか。ビデオの1~7番と9番では制作・発売元が変わっているので、何かスポンサーの異動などの影響もあるのかもしれません。

それにしても・・・この交響曲第9番、にわかマーラー・ファンにはかなりハードルが高い。

古典的な匂いを残していた初期の作品から、遂にベートーヴェンの呪縛を解き放ち独自の世界を作り上げたマーラーは、第8番で「交響曲」という形態の音楽の究極の高みにまで上り詰めた感があります。

となると、その次は・・・? 普通なら、その究極路線の延長線で熟練の技を研ぎ澄ましていくかと。ところが、マーラーは完全に独自の世界に入って、「マーラー」というジャンルの音楽に突入していくのです。

当時、新ヴィーン派と呼ばれるシェーンベルグ、ヴェーベルン、ベルクらが台頭してきて、現代音楽に通じる無調性音楽が注目されていました。マーラーも彼らの音楽を許容し、一定の理解を示していたようです。しかし、マーラーは音楽の自由を求めていましたが、自らの音楽では楽典的な枠組みの中で美的な追及に向かったようです。

実はこのあたりはマイルス・デイビスにも似たようなところがあって、オーネット・コールマンの出現によりジャズがフリーに向かった時、マイルスは一定の形式を維持しながら、即興演奏の自由度を高める方向に向かいました。

その結果が結実して、今では大傑作として誰もが認めるのが「Bitches Brew」です。しかし、自分も初めて聴いたときは、何だこの音楽は? という感じで、だらだらもやもと続く音の洪水のような印象だったんです。しかし、何度も何度も聴いているうちに、マイルス・デイビスという音楽が見えてきたんです。

一般的な解釈として、この第9番は「死んでいく音楽」であり、死を目前にした人間が人生を振り返り、辛い時、哀しい時、苦しい時を乗り越えて、楽しい時、そして戦う時を回顧するかのような流れ。ただし、キャッチャーな主題を見つけにくいため、悪く言えば俳優を邪魔しない「ドラマのBGM」が、時には無調性ぎりぎりで延々と続く感じ。

最後の第4楽章は、まさに音楽そのものが「死んでいく」わけで、音は次第に途切れ途切れになり、もう普通に聴いていたんでは聞こえないくらい弱々しくなっていきます。まさに少しずつ心臓の拍動が間延びしていき、留まったかともうとときどき収縮する。そして、遂には待っていても次の鼓動が起きなくて、臨終を迎えたことを認識する・・・そんな終わり方。

2回や3回では、とうてい理解できません。少なくとも、これを単純に交響曲と呼んではいけないだろうということだけはわかる。随所にマーラーらしさがある・・・ではなく、すべてがマーラーそのもの、これが「マーラー」という音楽なんだろうということ。

アバドは2004年にも、自ら若手育成のために創設したグスタフ・マーラー・ユーゲント管弦楽団との共演でビデオが残っています。どちらも、第4楽章の途中から舞台・会場の照明が落ちていき、譜面台の小さな灯りだけが残るという演出をしています。

クラシック音楽の世界では、しばしばこのような作為的な雰囲気作りの演出は否定的な見方をされます。しかし、独自のカラーを打ち出したマーラーは、普通使われないような楽器を多数登場させたり、演奏者に立ち上がることを指示したり、視覚的にも総合芸術を志向していました。

ですから、当時可能ならマーラー自身が照明効果を楽譜に細かく指示していたとしても不思議はありません。できれば譜面台用のライトも消してほしいくらいです。

ルツェルンでは、最後の音が消えてから、1分経過してからオケの面々が楽器を下ろし始めます。大変優れた聴衆も、物音一つ立てずに、「死んだ」音楽の余韻に浸ります。アバドが緊張を解くのは、何と2分15秒立った時で、鳴りやまぬ万雷の拍手が沸き起こるのでした。