https://www.digitalconcerthall.com/ja/concert/2922 |
ルツェルン音楽祭におけるクラウディオ・アバドの映像をいろいろと観ていると、いろいろと気がつく、あるいは感じることがありました。
ベルリンフィルという自他ともに認める「世界一」の楽団の監督という責任、あるいは長い事「カラヤン色」に染まった楽団から、自分の色を出すことに苦労したんだろうということは容易に想像できます。
アバド就任時のドキュメント、あるいはラトル退任記念のドキュメントがあるんで見ていると、はっきりと言葉にはしにくいのですが、なんとなくベルリンフィルに抱いていたもやもやみたいなものが少しわかってきたような気がします。
ベルリンフィルの楽団メンバーは、自主運営の原則から当然かもしれませんが、指揮者を「選んであげた」という意識が高い。
カラヤンは帝王として振る舞い、最後は楽団と衝突したことはよく知られたことですが、楽団もまた帝王になっている。同一組織内に帝王は二人いりません。
それは、古くは戦後にベルリンフィル再興に尽力したチェリビダッケとの確執もあり、カラヤンによって作られたというよりは、メンバーが変わっても元々からの体質なのかもしれません。
アバドにしても、ラトルにしても、ベルリンフィル以前の活躍に比べて、ベルンフィルでの音楽の評価が必ずしも高くないように思うのは、この辺りが関係しているように思います。
まぁ、もともとオーケストラ、それもカラヤン & ベルリンフィルの仰々しい感じが好きでなかった自分が持つ感じですから、マイナスの印象から感じているだけなのかもしれませんけど・・・
でもって、アバドの「大地の歌」です。
「大地の歌」は、マーラーの交響曲としては第9番になるはずのものでした。交響曲というタイトルはついていますが、番号はついていません。
多くの作曲家が、交響曲第9番が最後になったという、「9」にまつわるジンクスを忌み嫌ったからというもっともらしい理由がよく言われています。
ただ、交響曲のフォーマットをいろいろと壊してきたマーラーをもってしても、基本的に6楽章性の交響曲というよりは、オーケストラ伴奏を伴う大規模な6曲からなる連作歌曲集という色合いが強いことが、交響曲とするにはためらわれたというのが真意ではないかと思いますけど。
歌詞は中国漢詩をヒントにしたものと言われていて、この曲の最後の一節、「永遠に」を繰り返すメロディが、交響曲第9番の出だしに引用されつながっていると言われています。
いろいろなパターンの二人の歌手の組み合わせで、交互に歌うのが一般的。たくさんの名盤がありますが、中にはピアノ伴奏だけのものや、カウフマンのように一人で歌い切ってしまうものもあります。
アバドは正規に録音したCDはありません。幸い、2011年に行った演奏会の模様がベルリンフィルのサイトで公式に配信されています。当然、オケはベルリンフィル。コンマスはわれらが樫本他大進。
歌手は、ヨナス・カウフマンと大好きなアンナ・ソフィー・フォン・オッター。この二人が素晴らしい。さすがに現代を代表する歌手です。演奏も悪いわけがない。で、アバドは・・・というと、最初からそう思っているわけではありませんが、ルツェルンの時ほど嬉しそうじゃない。
逆に映像無しで、音だけで聴いた方がよかったのかもという感じがしたのは自分だけでしょうか。