セルゲイ・ラフマニノフはロシア出身の作曲家で、今でも生きていたら150歳くらい・・・って、そりゃ無理な話ですけど、つまりそんなに昔の人じゃない。
クラシック音楽だと、その大半は18~19世紀に生まれたものですから、少ない20世紀の作曲家の中では人気はトップクラス。
つらつらと思い出すと、クラシック音楽を初めて聴きだした小学生6年の頃・・・最初に買ったLPレコードがモーツァルトのクラリネット五重奏曲で、次が第九かラフマニノフのピアノ協奏曲第2番だと思うんですよね。
第九はジャケットに印象的な黄色のDGの枠が入っていて、ベーム翁の指揮姿の写真がドーンっと載ってますから、演奏者ははっきりしている。ラフマニノフは、おそらく60年代のColumbiaのステレオ録音。
誰の演奏だったのか・・・まったく思い出せません。2枚組で、たぶん一番との抱き合わせだったのかと思うんですけど、2番だけが強烈に印象に残って、後は無かったも同然。
第2番は、出だしの音域の広い和音が続くところから壮大なイメージが膨らみ、オーケストラが主題を奏で始めると、まとわりつくようなピアノに聴き惚れてしまいます。
ラフマニノフ弾きというと、まず思い出すのはアシュケナージ。協奏曲全集を2度録音しており、どちらも名盤の誉れが高い。
この前ジンマーマンの演奏を聴いていたら、ずいぶんとアシュケナージとは違う印象を持ちました。スタートの音量をおさえて、弾くたびに大きくしていくことでよりダイナミックな感じがでています。
それに和音を崩さずいっぺんにジャンっと弾くのでより力強さも感じられる・・・アシュケナージに戻って聴いてみると、和音がポロロロンとアルペジオになっていることに気がつきました。
女性的な甘い演奏をするアシュケナージらしいということなのか、音楽のロマンチックな感じを強めるための効果としてやっていることなんでしょうね・・・と思ったら、どうもそうじゃないようです。
本来の楽譜通りに弾くのなら、ジャンっと一度に鍵盤を押さえないといけないということなんですが、何とこの深い響きのある和音は10度(1オクターブで8度)の幅で弾くことになっていて、ちょっと小さい手のピアニストには指が届かないということ。
自分は・・・って、生意気ですが、1オクターブは楽勝ですが、10度はぎりぎり何とか触れることはできるかなくらいです。
実はラフマニノフは身長が2メートルあり、指は長く、関節も柔らかかったので、片手で1オクターブ半以上の鍵盤に余裕で指が届いたそうです(マルファン症候群によるものと考えられているようです)。
ですから、指が届かないピアニストは、和音をアルペジオに分解して引くことが慣例として許されているんだそうで、アシュケナージはそれほど大男ではありませんから、おそらく「指が届かない」派なのかもしれません。
・・・・さて、いよいよ、やっと今日書きたいことにたどり着くわけですが・・・マルタ・アルゲリッチは、10度の和音を弾くまで指が届かないんですよ、たぶん、おそらく、きっと。
アルゲリッチのレパートリーには第3番はあっても、2番は無い。聴いてみたいと思いますけど録音はありませんし、演奏したという記録も無いようです。
「わがまま」という表現もされるところですが、そこがアルゲリッチの一切妥協できない芸術家としての信念なんだろうと思いますが、弾きやすいように崩してしまうことは自分が許さないんじゃないかと。
アシュケナージが駄目とはいいませんが、物理的に弾けないものをアレンジするくらいなら一切手を出さないというアルゲリッチの立場も尊重すべきことなんだろうと思います。
そのアルゲリッチの第3番ですが、正規に残されている物は、1982年のシャイー指揮によるライブ録音のPhilips原盤だけなんですが、幸いコンサートのビデオもあってYouTubeで見ることもできます。
この曲も、相当な難曲であることは素人にも想像できます。ピアノ協奏曲というよりも、超絶技巧ピアノ独奏曲+ちょっとだけオーケストラ装飾音・・・みたいな感じ。
その中にも、ラフマニノフらしい、スラブの香りをたたえたロマンチックな響きがあり、特に自分のような前衛的な「わけのわからない」音楽に興味が無い者には、20世紀のクラシック音楽の名曲の一つであると思います。
それにしても、アルゲリッチの演奏・・・凄いとしか言いようがない。思わず、う~んっと唸ってしまいます。