2019年1月21日月曜日

八甲田山 (1977)

「天は我々を見放した」

この絶望的なコピーは、公開当時たいへん有名となり、当時劇場に足を運ばなかった自分も含めて、ほとんどの日本人は知っていたのではないでしょうか。

日露戦争直前、明治35年(1902年)、青森の陸軍の連帯が八甲田山での雪中行軍で大量の死者を出した実際にあった遭難事件を題材にした新田次郎の「八甲田山 死の彷徨」の映画化です。

「砂の器」の大ヒットで一躍知られるようになった野村芳太郎監督が製作にまわり、黒澤明の懐刀である橋本忍が脚本、やはり黒澤の助監督で鍛えられ「日本沈没」の監督をした森谷司郎が起用されました。また撮影は、ここから高倉健と長い付き合いになる木村大作という、今から考えると日本映画界の重鎮がそろっています。

当初から主演は高倉健でと懇願され、東映を退社してフリーとなった健さんにとっては「君よ憤怒の川を渉れ」に続く作品。

特に、初めての明治物であり、また「極寒俳優」とも呼ばれるスタートになる作品で、足掛け3年にわたる撮影、実際の行軍を再現する行程で真冬の八甲田山でのロケは過酷を極め、俳優のキャリアの上で大きな足跡を残すことになります。

今ならCGなどで、いくらでもこの猛吹雪の中を進む様子は映画として表現できるわけですが、当然この当時はそんな技術はなく、野村芳太郎に「映画には空気が映る」と言われ、すべて本物の自然の猛威の中での撮影でした。出演者は真冬の八甲田山を2回経験したのですが、何時間も雪の中で待ち続け吹雪いてくると撮影開始という極限的な状況に終始したといわれています。

当然、映像としてのベストのアングル、明るさとは言えないシーンは多々あります。しかし、この「本物」の自然の猛威は、確実にフィルムの中に結実していて、特撮では絶対に出せない空気を見たものに伝えることに成功しています。それが映画の興行的な成功を導き、また健さんをはじめてする出演者、スタッフの自信へとつながったと思います。

陸軍はロシアとの戦争が近い事から、寒地での戦闘で不利にならないように雪中訓練を計画します。そこで弘前の連隊からは徳島大尉(高倉健)、青森の連隊からは神田大尉(北大路欣也)が八甲田山ですれ違って行軍演習をすることになりました。徳島は神田を自宅に招き、妻(加賀まりこ)の手料理でもてなし、山中で出会うことを固く約束して別れました。

徳島大尉は、より距離があり日数が必要になるため、少数精鋭の27名で万端の準備の上で早めに出発し、安全も重視して地元民(秋吉久美子)に道案内依頼しながら、順調に進軍していきました。

一方、神田大尉は、大隊長(三国連太郎)の「弘前に勝つ」という本来とは違う目的を言われ、210名の大所帯で出発。大隊長の口出しで、案内人も頼めず、無理な行軍の中、天候が悪化し、次から次へと倒れていくのでした。

神田隊の遭難を知らない徳島隊は、八甲田山の麓まで遅れて到着しましたが、そのまま山中に入っていき、そこで凍死した神田隊の兵士を発見します。そして、ついに神田大尉の亡骸を見つけるのでした。

なんとか全員が八甲田山を踏破した徳島隊は、神田大尉をはじめとする多数の遺体が山中にあることを報告します。しかし、すでに神田隊の遭難者の遺体が一部収容されており、その中には神田大尉もいるといわれ驚きます。

徳島大尉は遺体安置所に行き、そこで神田大尉の妻(栗原小巻)から「徳島大尉との再会だけが今回の行軍の唯一の楽しみだ」と言っていたことを伝えられると、「確かに山中で再会しました」と言って泣き崩れるのでした。

青森の連隊は大隊長、倉田大尉(加山雄三)、村山伍長(緒形拳)ら、帰還できたのはわずかに12名でした。大隊長は、自分の責任を詫び拳銃自殺します。それから、何十年もたち平和な世の中になり、八甲田山のロープウェイに乗って八甲田を眺める老人がいました。彼は凍傷で片腕を無くしたものの生還を果たした村山伍長でした。

この最後のシーンだけはいらない気がします。徳島大尉以下、揃って八甲田山を背に弘前に帰投していくシーンで終わりで良かったのではないかと思います。ところどころで、青森の春・夏・秋の風物のシーンと徳島大尉のこどもの時の津軽の平和な風景が挿入され、雪中の厳しさとの対比を際立たせています。

命令に従って愚直に行動する武骨な明治の軍人、しかし、その中で部下の無事を最大限に考慮し、人との信頼関係を大事するキャラクターは、高倉健本人のイメージとも重なり、まさに他の誰にも演じることができないものでした。

上官の無理に振り回され、悲劇の中に精一杯行動した北大路欣也も、健さんに負けず主役級の頑張りを見せ、確実に日本映画史上忘れられない一本となったのでした。