教会暦にしたがって、バッハの膨大な教会カンタータを聴いていくと、一つのイベントに対して異なる時期に作られた数曲が存在することに気がつきます。
最初はあまり深く考えなかったのですが、よく考えてみると、ある年のある教会暦では1曲あればいい話。となると、作曲された時代による違いというのが重要になってくる。
そこで、最低限のバッハの経歴というものを知っておかないと訳がわからないことになるわけです。1685年にアイゼハナで生まれたバッハは、1703年、18歳でワイマール宮廷楽団に入団するところからプロの音楽家としてのキャリアが始まりますが、同じ年に、すぐアルンシュタットの教会オルガン奏者に転出したところから作曲家としての活動がスタート。
1703年 - 18歳 アルンシュタット時代
主としてオルガン奏者としての活動が中心で、教会カンタータの作曲はありません。1705年にはブクステフーデの元を訪れ、短期間のオルガン演奏の指導を受けています。このとき、行き遅れのブクステフーデの娘との結婚を条件に地位を約束されますが、バッハは断って逃げ帰ってくるというエピソードは愉快。
1706年ごろから、オルガン奏者として教会暦に関連したオルガン曲の提供が始まり、同時に結婚式とか葬儀などの世俗カンタータを作り始めます。1707年には、ミュールハウゼンのオルガン奏者として転出し、マリア・バルバラと結婚しました。
1708年 - 23歳 ワイマール時代
ワイマールの宮廷オルガン奏者となったバッハは、多くのオルガン曲を作曲します。1714年になると宮廷楽長に任命され、毎月の新曲の提供を義務付けられたところから、いよいよ本格的な教会カンタータの作曲が始まります。
それまでの作曲の蓄積はなく、また作曲も1ヶ月に1曲というペースですから、この時期の20数曲については流用・転用といったパロディはほとんどないようです。
比較的恵まれた環境での仕事が続いていたのですが、宮廷ないの権力闘争のあおりを食らう形で、バッハはワイマールから追い出されてしまいました。
1717年 - 32歳 ケーテン時代
幸いケーテンの宮廷楽長という職を得たバッハは、ここから多くの器楽曲を作り始めます。有名なブランデンブルグ協奏曲や無伴奏バイオリン、無伴奏チェロをはじめ、鍵盤曲の大半、大多数の世俗曲はケーテン時代の産物です。
ところが、旺盛な創作意欲の割には、カンタータなどの声楽曲はほとんど作られていないのです。ルター派プロテスタントのバッハに対して、ケーテンはカルヴァン主義改革派の土地で、宗教的音楽については重視していなかったことが大きな理由のようです。
この間、1720年に妻のマリア・バルバラが急死し、翌年バッハはアンナ・マクダレーナと再婚しています。
1723年 - 38歳 ライブツィッヒ時代
バッハはもともと「系統だてられた教会音楽」を究極の目標としていたので、ライプツィッヒの採用試験には相当意気込んだ作品を用意していて、うまいことに聖トーマス教会のカントル(トーマス・カントル)に採用されます。カントルはその教会の音楽監督であり、音楽についての最高責任者です。
ここから、毎週の主日に演奏されるカンタータの量産が始まります。また、マタイ受難曲、ヨハネ受難曲などの大規模な声楽曲も作られ、まさに教会音楽家として八面六臂の活躍をすることになります。
宗教曲以外では、鍵盤曲のイタリア協奏曲とゴールデベルク変奏曲、およびチェンバロ協奏曲、そして音楽の捧げもの、フーガの技法なとが作曲されました。それまでの数からすると、曲数は激減していますが、そのすべてがバッハの主要作品としてなっていることを考えると、大変充実した仕事ぶりと言えるでしょう。
そして、おそらく最後の作品がロ短調ミサ曲であり、1750年にバッハは65年間の生涯を閉じ、聖トーマス教会に埋葬されました。
地図でバッハに縁の地を確認してみると、一番長くいたライプツィッヒはベルリンの南西160キロ、ミュンヘンの北450キロです。日本で言うとミュンヘンを東京、ベルリンが大阪、ライブツィッヒが名古屋くらいの位置関係でしょぅか。
バッハの行動は意外と狭い範囲に集中していて、直径で100キロ程度の中に納まってしまいます。もちろん、今と違いますから、すべてが歩きか馬車での移動と考えれば大変でしょうけど。
ちなみに亡くなる原因となった眼の手術を行ったのは、イギリス人の眼科医ジョン・テイラーで、手術は成功したと主張したが、
実際は失敗であり、その合併症が原因とされています。さらに興味深いことに、ヘンデルもテイラーの手術の失敗により失明したということも何かの符号でしょ
うか。