内田光子は、世界で活躍する現役ピアニストであり、日本人としては唯一「巨匠」と言っても過言ではないかもしれません。小川典子、田部京子といった方々も後を追っていますが、とてもかなうものではありません。
1980年代前半にモーツァルトのソナタ全集を名門PHILIPSで録音し、一気に注目されると、80年代後半にはモーツァルトの協奏曲全集を完成し世界中から絶賛されました。
しかし、一方であまりに理詰めな内田のスタイルに息苦しさを感じる人も多く、好き嫌いがはっきりする演奏であるかもしれません。特にモーツァルトの場合は、全体的な明るさがあるだけに、よけいにそういう印象を与えているのかもしれません。
90年代に完成したシューベルトの主要ピアノ独奏曲選集は、まさに作曲家というキャンパスに内田の絵の具が完璧に塗られ、大変完成度の高い演奏といえます。
シューベルトはちょっと聴いただけでは、つかみ所のないようなところがあり、取っつきにくさがあります。シューベルトのソナタを一般に知らしめたのはケンプの力が大きかったと言われていますが、シューベルトの理念を演奏の中に結実させたのは内田が初めてではないでしょうか。
そして、シューベルトと同時進行でベートーヴェンの協奏曲全集を録音していました。そして、21世紀を迎えてついに内田はベートーヴェンのソナタの録音に着手したのです。
全集の企画では「悲愴」「月光」「熱情」などの有名曲から、あるいは最初から順番に録音されることが多く、最後の30番・31番・32番については、最後になることが多い。
それは、この3曲が精神世界を含めたベートーヴェンのピアノソナタの最高峰という位置づけにあり、もっともピアニストの技量が試されるからだと言われています。
ところが、内田はその最後の3曲から始めたのです。これには驚きを隠せません。
2005年に録音されたこのアルバムは、これまでの一貫した内田のスタイルがきっちりと続いていることを示しています。一音一音を吟味して、一回の打鍵でさえおろそかにしない。音符への執念というか、音楽への限りなくのめり込んだ姿勢はゆるぎもしないのです。
2007年には28番と29番を録音。ここでも、超弩級の大作「ハンマークラーヴィア」は早くも登場しているのです。内田はすでに自分の中で、ベートーヴェン・ソナタ全集を完成させているのだと思います。
ですから、このような離れ業的な順番が可能なのでしょう。それまでの全集に比べて録音は大変ゆっくりで、もしかしたら今年中に3作目が作られるのかもしれません。
内田は、丸2年かけて自分のなかでのベートーヴェン・ソナタ32曲を一周させているのではないでしょうか。おそらく、32曲全てがそろって、巨大なピアノ曲の一大叙事詩であると考えているのだと思います。
それにしても、このジャケット・・・どう見てもムンクの「叫び」ですよね。