2014年12月9日火曜日

ヨハネ受難曲 Part 1

語られ尽くした話ですが、出だしの持続的な低音の不協和音と弦の上昇と下降が、いきなりその場の雰囲気を作り出します。これから、イエスの受難の物語が始まることを、嫌が応にも知らしめる効果は絶大です。

そして、突然始まる悲痛な「主よ!」と叫ぶ合唱が、この曲の性格を雄弁に語っています。確かにこの冒頭曲だけでも、現代の自分の耳にも釘づけにさせるだけの大きな魅力が詰まっています。

初演は1724年4月7日、ライプツィヒの聖ニコライ教会でのこと。300年前、厳格なルター派プロテスタントで、道徳的にも保守的な土地柄のライプツィヒの市民であれば、おそらく今までに耳にしたこともない強烈な音楽に度肝を抜かれたことでしょう。

ちなみに、ライプツィヒ市内には聖トーマス教会と聖ニコライ教会の仏の大きな教会があり、トーマスカントルはその両教会の音楽についての責任がありました。聖金曜日の受難曲のような大きなイベントは、毎年両教会で交互に行う決まりで、本来は1724年は聖ニコライ教会の番だったのです。

ところが、知ってか知らずか、バッハは当初聖トーマス教会での演奏を計画して、実際チラシも配布していました。当然、厳格な市当局の怒りを買うことになり、呼び出されたバッハは戒告を受けることになります。後年、あからさまになる市との確執の始まりが、すでにこの時期に始まっていたわけです。

ヨハネ受難曲は、バッハにとって、1723年6月にライフツィヒの聖トーマス教会のカントルに着任してから、初めての聖金曜日のために作曲したものです。後年のマタイ受難曲に比べると、規模は小さく(と言っても、全曲で2時間)、コラールが多く含まれていることもあって、合唱の比率が多い。

歌詞については、作者不詳となっているのですが、一部はテレマンやヘンデルが競作したことで知られるブロッケスの自由詩による受難曲からも流用されています。

ブロッケス受難曲は、聖書の語句から離れた自由詩によるもので、自由都市ハンブルグですでに10年ほど前から人気を博していたもので、すでに今のコンサートの元祖というべき形式での上演も行われていたのです。

バッハは生涯にわたって、聖書からの引用を重視していたので、その点が特に古臭いと感じられていたわけですが、より劇的効果が高い自由詩をまったく除外していたわけではありません。ただし、ブロッケスの詩の一部を使うに当たっては、過激な表現を簡素なものに改めたりはしているようです。

しかし、バッハ自身が厳格なプロテスタントであり、またライプツィヒ市当局からトーマスカントルに課せられた華美な装飾の除外という規律の相まって、聖句やコラールと自由詩のバランスをしっかり取ることで、教会音楽として神学と芸術の融合した革新的な作曲をしたと評価されています。

内容的なことは各種のソースにより詳しく紹介されていますので、付け焼刃の知識の自分が解説するまでもありません。 全体としてはヨハネの福音書を中心にして、いきなりイエスが捕まるところから始まり、緊張感の高い進行が特徴です。

バッハは、翌年の聖金曜日にもヨハネ受難曲を取り上げています。この時の第2稿は、大幅な組み換えがあり、最も特徴的な冒頭合唱がありません。以前の楽曲が新たに取り入れられたり、後年マタイ受難曲に移される曲が含まれていたとされますが、一部の譜面しか残っていないので全容はわかっていません。

1732年の上演で用いられた第3稿では、初期稿にほとんどが戻されたと考えられています。続いて1739年に再演が予定され、総譜が清書されたのですが、何らかのトラブルで中止になり、バッハの自筆譜面も中断しました。ただし、のちに弟子らの手によって初期稿からの写しによって不足分が補われました。

1749年にバッハ存命中最後の上演があり、初期稿を底本としていくつかの変更を含めて総譜が作られ、現在の新全集ではヨハネ受難曲の決定稿に位置づけられています。ただし、一般的に演奏されるのはバッハの1739年の自筆総譜と足りない部分は第4稿のパート譜を基にしています。


このような複雑な過程を経ていますが、バッハの宗教曲を聴いていく中で、避けては通れない名曲であることは間違いありません。