2014年12月14日日曜日

待降節第3主日

待降節も今日で第3主日となり、あっというまにあと1回をのこすのみ。クリスマスが、足早に近づいています。日本人的には、♪もう、いーくつ寝ると、お正月、と歌いたくなるところ。

この日のバッハのカンタータは、
BWV186a 魂よ、つまずくなかれ (1716)
の一曲だけですが、BWV番号にaが付いているので、当然残っていません。

BWV186aでは合唱、コラール、アリアからなる6曲構成で、レチタティーボがはさまれていませんでしたが後に追加され、2部構成に拡大されたのがBWV186で、ライプツィヒでの最初の三位一体節後第7主日に演奏されました。

以上です。なにしろライプツィヒでは、待降節中は演奏が禁止されていたので、どうも話が短くなってしまいます。

重ねて言いますが、自分はキリスト教徒ではありません。医者ですから、理系のはしくれ。どうしても、理屈で理解しようとする傾向が強い。ですから、イエスが蘇生復活するということは、現実的に不可能という考えが勝ってしまいます。

日本人ですから仏教によるいろいろな行事をこなしていますが、どちらかというと、無宗教に近く、「神」とか「仏」とか、あるいは「魂」などは、存在を否定する根拠は持ち合わせていませんが、逆に存在する確証も無い。

キリスト教の基本的な考え方に、「信じるものは救われる」というのがあります。おそらく、イエスという人物が存在し、当時の人々に対して宗教活動と言えることを行ったのだろうと思います。

イエスは、ユダヤ教でいう救世主(メシア、キリスト)と崇められたのでしょうが、時の政治からは邪魔な存在として抹殺されたところまでは、歴史上の事実として認めてもいいでしょう。

ただし、本来はそれで終結する話であって、実際に終結していればキリスト教という宗教は存在しなかったはずです。

イエスが処刑された3日後に復活したということで、イエスの弟子たちが、死後にイエスのカリスマ性を強調することが可能になり宗教として成立することが可能になったはずです。

この点については、新約聖書の4つの福音書に、処刑された後3日目に墓が空になっていることでイエスが蘇生したということにしています。つまり蘇生する状況については記述はなく、あくまでも状況証拠のみ。

復活後に40日間活躍した人物がいたとしても、キリスト教内部からの記述によるだけで、それがイエスと同一人物である客観的な第三者による記録はありません(たぶん)。ましてや、「昇天」というイベントも理論的には説明不能な超自然現象であることは間違いありません。

ですから、「信じる」べきものはイエスの復活・昇天であり、まずこれを無条件に受け入れる事がキリスト教徒としての本来のスタートなのだろうと思います。

しかし、キリスト教では、人の子であるイエスを昇天させ神としてしまったことで、三位一体という非論理的「言い訳」を作り出し、自己矛盾を持ち続けていることになります。

18世紀のヨーロッパに巻き起こった啓蒙思想は、これらの矛盾点を非事実として受け止めた上で、近代キリスト教へと発展させたのだろうと思います。

なんか、難しいことばかり考えてしまいましたが、要するに何が言いたいかというと、ヨハン・セバスチャン・バッハはそういう過渡期に活躍し、明らかに啓蒙主義に晒される前の旧世代の敬虔なルター派プロテスタントのキリスト教徒だったということです。