ライプツィヒ大学は、1386年創設のハイデルベルク大学についでドイツで2番目に古い大学で、その創設は1409年までさかのぼります。つまり6年前に、創立600年を迎えているというから、すごすぎる話。
600年前というと、日本は室町時代。金閣寺が作られて12年、足利義満が亡くなった翌年。戦国時代に突入するのは、まだ80数年は後のこと。
何しろ学生だった人はというと、ゲーテ、ニーチェ、シューマン、ワグナーなんかがぞろぞろ出てくるのですから、その歴史の重みたるは生半可じゃない。
現在では、医学部は有名らしいです。全校で2,800人の学生がいて、学費は年間数万円というから日本とはだいぶ教育事情が違うようです。いずれにしても、ドイツの先端思想を長年にわたってリードしてきた名門であることは間違いありません。
さてさて、バッハは1723年にライプツィヒの聖トーマス教会に赴任するわけですが、これを決めるのは市参事会。前任者のクーナウが1722年に亡くなって、空きになったポストを誰にするかいろいろ相談をしました。
当時、すでに人気が出ていたテレマンが、最初の候補にあがります。なにしろ、テレマンはライプツィヒ大学出身で、街のこともよくわかっているので適任だったわけです。
テレマンは、1721年にハンブルクでカントルに就任したばかりで、ハンブルク市当局も引き抜かれてはなるものかと、待遇改善を約束したため結局この人事は実現しませんでした。
そこで、何人かの新たな候補の一人としてバッハの名前が出てきたわけで、市としても「最善が無理なら、このあたりで我慢するしかない」というところでバッハに決まったという事情があったわけです。
バッハとしても、最初のうちは当然、そのあたりの事情を知ってか知らずにか、従順にがんばりますという態度を示し、市の重要な文化機関であるライプツィヒ大学に対しても、卒業生ではないけど精一杯協力しますというところだったのです。
1727年に、ザクセン選帝候妃クリスティアーネ・エーバーハルディーネが亡くなりました。彼女は根っからのプロテスタントで、夫である選帝候のポーランド王の称号と引き換えにカトリック改宗したときに、これに大反対しその後は一人で隠居生活を送っていました。
当然、ライプツィヒでも彼女はプロテスタントの鏡として尊敬されていたため、ライプツィヒ大学の裕福な貴族学生の出資によって大学附属教会で追悼礼拝が行われることになりました。
そのための音楽がバッハに依頼され、作られたのがBWV198 侯妃よ、なお一条の光を です。始まりから最後まで、大変印象的なカンタータであり、分類上は世俗カンタータではありますが、バッハの作品の中でもかなり上位にあげられる名曲だと思います。
この曲の一部は、失われたマルコ受難曲とレオポルト候の葬送音楽(マタイ受難曲からの転用を含む)へパロディされていて、バッハ自身もこの曲を気に入っていたのだろうと思います。
ほかにも大学教授の誕生日などのための祝賀用のカンタータも何曲か作られています。BWV215 おのが幸を讃えよ、祝されしザクセン はザクセン選帝侯のライプツィヒ訪問に際して作られたもの。予定が早まり急きょ用意したものですが、なかなかの出来です。
夜の9時に演奏が始まり、600人のライプツィヒ大学の学生が蝋燭を灯して行列を組んで選帝侯を出迎えました。トランペットも大活躍するのですが、この演奏した名手ライヒェが、翌日急逝したことも含めた新聞記事が残っています。
ライプツィヒ大学とバッハの関係する楽曲を、一堂に集めて収録した、「ライプツィヒ大学式典用祝祭音楽集」というCDセットがあります。これは大学創立600周年を記念した企画として6枚組で、世俗カンタータを中心にに収録されました。
合唱には現ライプツィヒ大学合唱団が参加しており、300年たっていてもバッハと大学の関係を引き継ぐ気概にあふれた演奏には好感が持てます。