「この部屋には笑顔がないわ」
個室に移ったばかりの患者さんが、ぽつんとつぶやくように口にした言葉。
医者になって、まだ半年たらず。まったく新米研修医の自分にとっては、心に突き刺さるような言葉でした。
その患者さんは、乳癌で大腿部の骨にガンが転移し骨折をしたため入院したのでした。これは、新米でも末期の状態で、命はそうは長くないということが想像できました。
まだ、患者さんが「死ぬ」という経験はなく、また死んでいく患者さんに、どのように接することがいいかもわからない状態でしたから、その一言に対してまったく返す言葉を見つけることができなかったのです。
患者さんは、病室の天井の石膏ボードについている模様のことを言っていたのでした。模様の微妙な並び方の中から、少しでも病気と闘うための勇気を得るため、あるいは一縷の望みを託すため、もしかしたらただの慰めだったのかもしれませんが、笑顔に見えるところを探すのが習慣になっていたのかもしれません。
その時の天井には、患者さんの救いになる笑顔が見つけられなかったということは、本人はある程度死期を悟っていたということ。そして、医師免許はもらったけれど、何もすることもできない自分を再確認したこと。
今でも、似たような模様を見るたびに、自然と笑顔に見える組み合わせを探してしまうのです。そして、少なくとも、ちょっと見つめているとすぐに笑顔を見つけることができます。
笑顔を探せているうちは、あの時の患者さんの言葉の真の意味は理解できないのかもしれません。