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2017年11月26日日曜日

古事記 (13) 欠史八代~崇神~垂仁


神武天皇が即位したのは、日本書紀には辛酉年と書かれていて、これが弥生時代早期の紀元前660年になるということで、現在「日本」の成立として「紀元節」と呼ばれる所以であり、ギネス記録で世界最古の王朝とされています。

神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)は、古事記での呼び名。日本書紀では、神日本磐余彦天皇(かんやまといわれひこのすめらみこと)と呼び、これを和風諡号(しごう)といいます。

神武天皇と呼ぶのは、崩御後につけられる漢風諡号というもので、記紀の成立した段階で使われていたものではありませんが、短くて使いやすい。

日本書紀によれば、神武天皇は76年間の治世があった・・・のですが、東征のエピソード以外ほぼ白紙。亡くなったのは127歳(古事記では137歳)というのは、やはり常識的に無理がありそう。

大正時代に津田左右吉が「神武天皇は事実にもとにしたものではなく神話の一部」と発表し、皇室を冒涜したとして有罪になりました。現在まで実在については結論はでていませんが、津田学説をもとにして、おそらく4世紀ごろの天皇の誰かをモデルにして、記紀編纂時にいろいろな逸話から創作されたという意見が主流です。

さらに神武天皇に続く、綏靖天皇、安寧天皇、懿徳天皇、孝昭天皇、考安天皇、孝霊天皇、孝元天皇、開花天皇までは古事記ではまったく触れられていないため、これらを欠史八代と呼びます。

日本書紀でも、父子の直系で即位し、都の場所、皇后の紹介、崩御した年などが記録的に羅列されているだけで、不自然に長寿だったりします。ですから紀元前600年と、大和王権が成立する4世紀との間を埋めるための創作と考えられています。

その中で、古事記では、神武天皇が即位後に新たな皇后を迎え子を授かったことに触れられています。となると、日向時代に妻子がいたわけですから、ここに昼メロ的ドロドロの事態が発生している。

美しい勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)に三輪山の大物主神(オオモノヌシノカミ、オオクニヌシの分身と考えられる)が惚れてしまい、トイレで矢に変身して陰部に突き刺さっていった・・・という、何ともR18な話。

そこで生まれたのが伊須気余理比売(イスケヨリヒメ)で、神武天皇の皇后になり3人の子をもうけました。神武天皇崩御後、先妻の子が天皇の座を狙ってイスケヨリヒメに接近するも三兄弟の末っ子によって倒されました。

第10代となるのが崇神(すじん)天皇で、その治世に疫病が発生。すると、またもやオオモノヌシが夢枕に登場し、この災いは自分を大事にしないからだから、意富多多泥古(オオタタネコ)を探し出し自分を祀らせなさいと言います。オオタタネコによって祭礼を行ったところ疫病はおさまりました。

以前、活玉依毘売(イクタマヨリビメ)のもとに夜な夜な通ってくる若者がいて、いつの間にか身籠ってしまいます。親が相手の正体を知りたくて、娘に糸巻の麻糸の端を帰り際に相手の衣につけるようにいいます。翌朝、糸を追いかけていくと、三輪山の神社にたどり着き、残った糸は糸巻に三巻きだったので三輪山といい、相手の若者はオオモノヌシだったという・・・

オオクニヌシの頃からプレイボーイ振りは健在だったという話で、これが「三輪山伝説」と呼ばれていますが、実はオオタタネコはオオモノヌシとイクタマヨリビメの曾孫の子、つまり玄孫でした。あらためて、天皇家と三輪山の関係を強調することになります。

日本書紀には、オオモノヌシの言葉を崇神天皇に伝えたのはオオモノヌシの妻だった、天皇の叔母、百襲姫(ももそひめ)と書かれています。神のお告げを伝える役どころから邪馬台国の卑弥呼の候補の一人になっています。

疫病が落ち着いてからは、各地に兵を出し、抵抗勢力を制圧し国は安定し発展、民も豊かになり大和王権の基礎が確立しました・・・なんですが、崇神天皇は168歳で崩御という、やはり嘘っぽい話で終わります。

崇神天皇の子が第11代の垂仁(すいじん)天皇で、こちらも亡くなられたのは153歳。その第三子が第12代の景行天皇であり、その子が古事記のヒーローの一人、ヤマトタケルです。