2017年11月12日日曜日
古事記の成立
古事記の原本は今は残っていません。今、古事記として読むことができるものは、後世に写本されたもの。一番古い物が、14世紀の真福寺本と呼ばれる物。
古事記が成立したのは712年と確定的に言われる理由は、この真福寺本にある「序」に「和銅五年正月二十八日に献上」と記されているからです。
さらに、著者は、稗田阿礼(ひえだあれ)が、記憶していた古い資料(「帝紀」と「旧辞」)の中身を語り、太安万侶(おおのやすまろ)が文章としてまとめあげたものと書かれています。
そして、「序」によれば(おそらく)天武天皇から指示されたとありますが、その後天皇の逝去、その後継をめぐるごたごたで政情不安定がしばらく続いたせいなのか、和銅5年の成立までに30年以上を要したと考えられています。
この「序」がいろいろな問題を含んでいるのですが、そもそも序というのは読む人に対する編者・著者の挨拶文ですが、内容は明らかに時の天皇に対しての「献上」されたもので「表」と呼びならわされるもの。
その結果、「序」は後世に後付けされたものであるとか、本文そのものも捏造された可能性も議論されることになりました。
次に「序」の書かれた口述者である「姓は稗田、名は阿礼、年は28歳」なる者はどんな人物かという問題。見たもの読んだものは一目で記憶してしまう天才ということが書かれているのですが、男性なのか女性なのか、稗の田が荒れているともとれる名前は誰かのペンネームとも考えられます。
さらに、太安万侶も実在の人物か疑われていました。しかし、なんと比較的新しい1979年に奈良県で太安万侶の墓が発見され、奈良時代に実在した文官であることが証明されたことで、さまざまな古事記の成立に関する疑いが晴れました。
とは言っても、古事記の内容についても、いろいろな諸説が入り乱れている状況には変わりありません。一般的には対外的な「正史」として編集された「日本書紀」に対して、「古事記」国内向けのものと言われています。
それなのに、江戸時代に国学者、本居宣長が注目する(「古事記伝」、1797年)まで、ほとんど国内では話題になりませんでした。以後は、積極的な研究が盛んになったわけですが、盛んになればなるほど謎が謎を呼ぶというわけです。
歴史、考古学、文学などさまざまな方面から学者が喧々諤々の議論をしてもはっきりしないことは、素人の自分がここで考えてもしょうがない。一般的な見解を素直にそのまま受け入れておくことにします。
つまり、時の権力者であった大和朝廷が、大なり小なり創作を交えつつ、いろいろな伝承を換骨奪胎して作り上げた日本の建国の歴史書の一つが「古事記」であるということ。
その目的は、天皇家が支配することの正当性を明示すること。とくに古事記では、「神代」と呼ばれる上巻が最も重要な部分で、天と地、山と海のすべての力を天皇家が持つことの理由付けがされています。
その中身はほとんどファンタジーの世界ですから、古典文学の作品として十分に鑑賞しうると同時に、その行間からは当時の人々の暮らしが垣間見え、日本の古代史を知るための資料としても重要だということです。