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2017年11月13日月曜日
記紀神話から見える現実
今の日本の国土は、ユーラシア大陸の端っこの一部だったことは確定している話です。つまり氷河期・・・更新世(こうしんせい)と呼ぶ時代のこと。大陸と北と南が陸続きになり、日本海は「湖」だったそうです。
少なくとも60万年くらい前、40万年くらい前、そして2万年くらい前の3回はつながっていたと考えられています。少なくともゾウは泳げないので、北海道で化石で見つかるマンモスはシベリア経由で、全国的に化石が見つかるナウマンゾウなどの朝鮮半島から歩いてこれたことは確実。
この時期にいろいろな動物が、大陸から歩いて、あるいはちょっと泳いで日本列島に渡ってきたらしい。その中にヒトがいたはずなんですが、現在わかっているのは4万年前くらいの石器(人が作った、つまり人がいた証拠)が最古とされています。
その頃の人は、おそらく狩猟による食物の確保が中心の生活で、気候のよい生活環境の場所に集中し、ある程度の集団で生活していたらしい。なんと、いろいろな資料から当時の人口を推計した話があって、西日本を中心に日本列島全体で約8000人なんだそうです。
当然、まだ国家というような概念はなく、ゾウのような動物を倒すために共同作業をするための共同体ということでしょう。気候の変化により、居住地域は動いていくはずですから、リーダー的な存在のヒトはいたかもしれませんが、定住生活が始まる縄文時代以後まで国の誕生は待たないといけません。
縄文人になると狩猟による生活から、保存のきく木の実などを主食とする生活にかわってきます。住居は竪穴式となり、定住生活が始まりました。そうなると、一定の食物が手に入ることを願う・・・つまり祭り、そして宗教的な儀式が始まるわけです。
さらに縄文時代末になると、稲を含む穀物が食べられていたらしく、大陸から持ち込まれたものか、実際に栽培が始まっていた可能性があるわけで、しだいに集団の力が大きくなっていく・・・その中にはっきりとしたリーダーが登場することになる。
その各地に登場してきたリーダーの中の一組が、イザナキ・イザナミだった。そして、彼らは子を増やし、さらに力をつけていったのかもしれません。
当初の彼らの縄張りは淤能碁呂島(おのごろしま)と呼ばれていた淡路島で、人口の増加とともに海を越えて、紀伊半島、中国地方、四国、九州などへ勢力を拡大していったのが「国生み神話」の裏側だったのだろうと想像します。
縄文時代の呼び名の由来は、この時代を特徴づける土器についていた紐を回してつけた跡です。一方、この後に来る弥生時代は、明治時代に東京都文京区弥生町で縄文土器とは違う土器の発見からきています。
弥生時代は、朝鮮半島から渡ってきた人によって伝えられたと考えられてる稲作文化が最大の特徴。さらに布を織る技術、青銅、鉄などの金属製の道具を作る技術も流入してくることになります。豊かさが増えることは、争いと、人の上下関係の始まりでもあるわけです。
当然、朝鮮半島と最も行き来のしやすい、対馬経由の北九州、隠岐島経由の島根付近が、新しい文化発達の中心となるはずです。これらの地域には、強大な新興勢力が登場しても不思議はありません。
これは勝手な想像ですが、紀伊半島を中心としたイザナキ直系のアマテラス集団に加えて、この時代にそれぞれの場所でリーダー格として出てきたのが、オオクニヌシ集団とスサノオ集団だったのかもしれません。古事記の中で本来は同格のはずのツクヨミ集団は、おそらくアマテラス集団に吸収されてしまい消滅したのかなと思ってしまいます。
この辺りは本当に勝手な想像ですから、何の根拠もありませんから、読み飛ばしてもらっていい話ですが、例えばアマテラス国は、最初は仲良くしていた北九州のスサノオ国を併合しようとしましたが、抵抗にあって結局は南吸収に追いやって封じ込める。
さらに、アマテラス国は日本海側に進出し、オオクニヌシ国を吸収合併することに成功して最大勢力としての地位を確保する。最後まで抵抗をしていたスサノオ国はアマテラス国が派遣したニニギによって制圧され、国家としての初期形態が完成したのが3世紀頃の話・・・なんてストーリーを想像すると楽しくなってきます。
いずれにしても、3世紀になり弥生時代後期になってくると各地の部族間の争いは確実に激しくなり、その中で歴史上注目度の高い人物が登場します。それが「邪馬台国」を率いる「卑弥呼」ですが、記紀の中では明確な記述はゼロというのは驚くしかありません。
そして、4世紀半ばにその中から抜き出たのグループが大和朝廷となり、天皇制のもとに日本という国家を統一していったということだけは間違いないようです。