2017年11月20日月曜日

古代史の勉強で困ること


古事記の上巻で、神代の世界の話が整理されます。この部分は、日本書紀だと全30巻の最初の2巻にまとめられ、神様の呼び名が多少違ったり、はしょられた話があったりします。

続いて人代の話に入るわけですが、古事記の中巻と下巻はあまり重視されていない。というのも、日本書紀が残りの28巻で、もっとも詳しく記載しているからです。

神代の話は再三書いてきたように、元がファンタジーの世界です。ヒントになる事実のあったかもしれませんけど、一つ一つのエピソードをすべてまともに受け止めるのには無理がある。

ですから、研究者の想像に任せるしかありませんので、もう解釈の仕方はいろいろ。多少の考古学的な物的証拠と合わせて、客観的に論を進める人もいれば、まったく荒唐無稽な仮説を展開する人もいる。

文学として学ぶなら何でもいいのですが、自分の場合、理系人間の端くれで、古代史としてきちんと納得できる話を知りたいし、わからないことはわからないとはっきりさせておきたい。

とは言っても、神代についてはある程度あきらめがつく。何しろ、神様が主役ですから、何でもありです。古代日本の基本的な思想の原型だと思って、かえってあっけらかんとした世界観を楽しめばいいと開き直れます。

問題は人代です。これは困った。何しろ現代まで続く、「万世一系の天皇家」の物語になるわけですから、ファンタジーではすませられない。

とにかく研究者の中でも、いろいろな説が多すぎて、素人からするとそのどれもがもっともらしいのですが、実はいずれも確定的な証拠があるものはきわめて稀という印象です。

理系の研究は、まず予想される結果を想定して仮説を立て、実験という手技によって仮説を証明することで事実と認定されます。古代史については、同じように仮説を証明するのですが、実験できるわけではないので、文字の記録や発掘物から矛盾しない状況証拠を探し出すしかない。

ところが、そもそもその状況証拠も、仮説の上に成り立っているわけですから、延々と仮説の連続で、もう研究者の信念としか言いようがないところがある。

とくに、記紀などの文献を中心に考える歴史学者と、発掘物から考える考古学者との間の深い溝はかなりのものだと思いました。とにかく古代史研究者お互いの批判合戦は、かなり熾烈な戦いで、ネットなどでも、名指しで著作物を徹底的に批判するみたいなことは日常茶飯事のようです。

特にヤマト王権が成立していく3~5世紀あたり、つまり弥生時代末期から古墳時代の話となると、記紀の記述も曖昧で、研究書も魑魅魍魎の百鬼夜行の如くで、どれをとっても賛否両論が半々です。賛成派はもう信者に如く褒め讃えるし、否定派は鬼の首を取ったかのように攻撃する。

文献については、思想的な背景のもとに意図的に作り出されたらしき物もあり、何が信用できるかはっきりしない。本来は物的証拠を持ち出せる考古学側が、しっかりしないといけないのですが、実はここにも大きな問題があって、2000年に発覚した「発掘捏造事件」は記憶に新しい。

次から次へと新発見を発掘し「神の手」と呼ばれた著名な考古学者が、実はほぼすべての発見を、自分で埋めて発掘していたという驚愕的な事件です。

20数年間にわたり行われていた捏造により、それまでの旧石器時代の歴史はほぼ全滅する状況で、教科書などもすべて水泡と帰して、考古学に対する信頼は完全に地に落ちてしまいました。捏造した側もさることながら、長期にわたりそれを見抜けなかった考古学関連の学会、研究者の側にも大きな問題があると言わざるをえない。

というわけで、続いて日本書紀を中心に人代の話を読んでいきたいと思っているのですが、いろいろな資料を集めれば集めるほど、どこから整理していけばいいのかわからなくなって、迷路の中で途方に暮れている状況なんです。

とは言っても歴史は難しい。蘇我氏を滅ぼした645年の事件は「大化の改新」と教わりましたが、今は「乙巳の変」と呼び、大化の改新はその後の政治改革を指すようになりました。聖徳太子と後世に呼ばれて1万円札で長らく知られた厩戸王(うまやとおう)は、実際はそんなに立派な人じゃないというのが現在の認識。

鎌倉幕府の誕生は「いい国作る鎌倉幕府」で1192年という語呂合わせが定番でしたが、最近は「いい箱作る」で1185年に変わったらしい。江戸時代のキーワードとして重要だった「鎖国」も、限定ルートで外国と開いていたのでことばとしては使わなくなったそうです。「士農工商」も消えて、武士とその他大勢みたいなことになった。

新しい発見や解釈で変わるのが歴史ですから、理詰めで考えると、出口を見失うのは当然のことのようです。どこか肩の力を抜いて、「まぁこんなもんかなぁ」くらいの適当なところで妥協するくらいでちょうど良さそうです。